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第3話「空飛ぶ柴田」
〇空飛ぶ柴田
ふと、静けさに落ちた厨房の壁にかけられたアナログ時計を見上げる。 深夜2時15分、割と早く終わったな、なんて心の中で呟きながら俺は洗浄機の締め作業で濡れた手をペーパータオルを数枚取って拭い取る。
俺が働くラーメン屋・幸福亭の営業時間は、朝10時開店の深夜2時閉店でラストオーダーが30分前の1時30分だ。
とはいっても、閉店時間はあくまで閉店時間でありその時間に帰れるわけではなくて。 ラストオーダーの時間に客がいなければ、そこからすぐに店内の閉店作業が始まる。 けれど、もちろんラストオーダーまでいることの方が多い。 そうなると、たまにいるのが食事を終えても会話に花を咲かせお冷ポット1つで2時30分を過ぎても帰らない例だ。 あれにはさすがに温厚な店長も少し腹を立てていたように思える。
接客業だから、客優先はどうにも否めない。ラストオーダーを過ぎ、閉店時間を過ぎてもいっこうに客が帰らない時、やることもつきた俺はトイレ掃除に逃げ込むことにしている。
あそこなら、多少だらけても携帯を操作しても誰にも文句を言われない。
だけど、今日は珍しくラストオーダーの少し前にはすでに客足は途絶え有線から流れるクラシカルなメロディだけが店内を包んでいた。
今日は確か金曜日。基本的に土曜日は鬼のように混む鬼畜DAYだ。そしてもちろん、俺は明日もシフトに組み込まれている。
嫌だなあ、なんて鬱々としていたのもつかの間窓の外にふと目配せすると駐車場の際に立てられたのぼりが目に入った。のぼりには、【水曜、金曜は大盛無料】【あっさり風中華そば】【ラーメン 幸福亭】などと描かれている。
「やば…! 忘れてた…」
店長、とやや声を張って少し離れて場所で厨房の掃除をしていた彼に声をかけると「ん?」と柔らかな動作でこちらを振り返った。
「すみません、俺…のぼりの回収忘れてたみたいで。 ちょっと倉庫にしまってきていいですか?」
「いいよいいよ、行っといで。 あとホールの方は残ってる作業はある?」
「いえ、ホールはもうないと思います。トイレと、ごみの回収と、洗浄機の締め作業もさっき終わらせました」
俺が早口過ぎないリズムで、一息にそう伝えると店長はふにゃりと柔らかく笑って見せる。
「よしよし、それじゃああとはのぼりの回収だけだからそれ終わったら先にあがっていいよ。 今日は棚卸しの作業があるから」
わかりました、そうシンプルに答えると俺は事務所に入りコートを手に取ると足早に駐車場へと向かった。
のぼりの全長は、大体俺の身長より少し高いくらい…170センチはゆうに超えてるんじゃないだろうか。そんなのが、駐車場には6本ほど土台に立てられていて俺はそれらをひとつずつ引き抜き抱えては店の裏手にある倉庫にしまうのがラストミッション。
肌を刺す空気はまだ冷たくて、のぼりを抱える腕の皮膚が微かにひりつく。けど、あと少しだ!なんて自分で自分の背中を押しながら小走り気味に倉庫へ向かう。
「えーと、鍵鍵…」
倉庫の前にたどり着くと、6本ののぼりを小脇に抱えなおしエプロンのポケットに入れたはずの倉庫の鍵を探り当てる。そして、親指と人差し指でつまむと鍵穴へ差し込み右方向へ半回転させるとカチッという錠が開く音を確認し、極力物音を立てないように静かに扉を開いた、ーその時だ。
扉を開ける前に、一度のぼりを地面に寝かせればよかったものを俺は抱え込んだままそれに挑んだのがたたり、扉を開けるやいなや待ってましたと言わんばかりにのぼりたちがズルズルと脇下からこぼれ落ちていった。
せつな、以前「音がうるさいから深夜の片付けは慎重にしてくれ」とクレームがあったから一応気をつけてね、と店長に言われた言葉を思い出す。
まずい、このままだと確実にまずい。のぼりを地面に落とすと意外とうるさい、俺としては是非面倒ごとは極力避けたい、そんなことをのぼりが地面にダイブする直前までに考えた結果無意識に両足がギリギリのところでそれらを股下で挟み込むようにして捉えた。そして安堵もつかの間、さっさと片付けようと両の手ものぼりへ伸ばす。
「あれ?」
不意に聞き覚えのある声が、背後から降りかかる。
恐る恐る振り返ると、予想通りの人物が不思議そうにこちらを見つめていた。
なんてタイミングの悪い。どうして今、貴方にみられてしまったのか。
「柴田くん、空でも飛ぶ気?」
「ち、違います! 倉庫にしまおうとしたら崩れて、それで…」
数本ののぼりにまたがる25歳、なんて滑稽なのだろう。しかも、それを誰かに目撃された上に声までかけられて。
なによりも、それが…貴方だなんて。…最悪だ。
「なんか、可愛いね」
「………へ」
ぐるぐると後悔の渦に飲み込まれかけていた俺は、彼の相変わらずの突拍子のない言葉に間抜けな声を漏らす。
開いた口が、塞がらない。今、この人はなんて言ったんだ?可愛い?のぼりが?…俺が?
「ね、写真撮っていい? …あ、でも暗くて写らないか」
俺の自問自答をよそに、相変わらず目の前の彼はマイペースに言葉を紡ぐ。うっすらと照らす月の光にアッシュブラウンの癖毛が透けて綺麗だ、なんて思ったことはここだけの秘密。
「だっ、だめです! 片付け、片付けの途中だったんです…!」
「はは、残念」
そう笑うあなたの顔を見て、ちょっとくらいいいだろうか、なんて……俺は、笑っちゃうくらい単純な生き物だったみたいだ。
「今帰りですか?」
「間に合わなくて残念だよ、これでも急いできたんだけどなぁ」
お疲れ様です、そう伝えると彼はただ薄く笑って「ありがとう、柴田くんもね」そう言って少し骨ばった大きな彼の手が優しく俺の髪の毛を撫でてくれた。
明日も頑張ろう、なんて…本当に単純だ。
ラストオーダーは深夜1時を回ったら 「空飛ぶ柴田」 完
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