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第一章(⑤)

 正直、大変な一日だったので、そのまま宿舎に帰って休みたい気分だ。しかし、昼間のニイガタ少尉の言動から察するに、断ると後で色々面倒そうである。カトウは仕方なく、黙ってついていった。カトウだけでなく、アイダ准尉とササキ軍曹も一緒だ。 「今日はお前の歓迎会じゃ」  ササキが、ばしばし背中を叩いてくる。  その仕草にカトウは親しみよりも、うっとうしさを覚えた。  四人並んで歩くこと十五分。荻窪駅前に出たカトウは、思わず目をみはった。そこには緑の残る郊外というイメージを覆すにぎやかな市場が広がっていた。焼き魚やおでんのにおいがごった煮のように立ちこめる中を復員兵や車夫、モンペをはいて子どもの手を引く母親たちが歩いている。 「ヤミ市だよ」  アイダが教えてくれた。 「都内でもこれだけ大きいのは珍しいんじゃないかな」  カトウはてっきり荻窪駅の近くで食事をするかと思ったが、そうではなかった。ヤミ市を横目に、カトウ以外の三人が慣れた様子で駅舎に入る。そのまま電車に揺られ、到着したのは新宿であった。  下車して大通りに出ると、そこかしこの電柱にアメリカ軍が取りつけた「Avenue K(K通り)」の標識が見えた。ほかにも日本語の看板と並ぶように、ちらほらと横文字の看板がかかっている。  ニイガタは新宿駅から少し離れた一軒の店に、カトウたちを連れて行ってくれた。  まだ七時にもなっていないが、店内の椅子はすでに七割がた埋まっていた。半分以上が米軍の軍服を着たGI(兵士)で、女連れもちらほら見える。女はいずれも日本人で、厚く化粧をし、派手な衣装に身をつつんでいる。「パンパン」と呼ばれる街娼だ。  カトウたち四人はうまい具合に端の席を確保できた。やって来た給仕にニイガタが早速、飲み物と料理を注文し出した。 「まずビール四本と、それから…」 「あ、すみません」  カトウがぼそっと、つぶやいた。 「俺には、オレンジジュースをお願いします」 「なんだ。酒はだめか?」 「ええ。飲めないクチでして…」 「一杯くらいだったら、いけるじゃろ?」  強引にすすめるササキに、カトウは顔をしかめる。とりなしたのはアイダだった。 「飲めないやつに、無理強いはするなって。飲まれる酒の方も気の毒だ」  そのひと言で、場はおさまった。乾杯した後、しばらくカトウは聞き役に回った。元々、口数の多い方ではない。会話の大半はニイガタとササキから発せられ、時々アイダが口を挟んだ。酒が回ってくるにつれて、ニイガタの顔が赤らみ、厳めしさが消え、陽気になってきた。 「まあ、お前もな。来たばかりだから、仕事にまだ慣れてないのは仕方がない。俺も厳しいことは言うが、叱られるのも仕事の内と思って精進してくれ」 「…イエス・サー」 「おう、まじめだな。まじめなのは、いいことだ!」  日中とはうって変わって、豪快に笑いながらビール瓶を手にする。横に座っていたササキが恐縮した態で、空になったグラスを手にし、ビールを入れてもらった。酒の飲み方に限っては、二人とも完全に「日本式」をマスターしているようだった。 「これから、この部署でやっていけそうか?」  アイダがグラスをかかげ、カトウに尋ねた。 「…まあ、何とか」カトウは答えた。 「そいつはよかった」 「アイダ准尉は、今の部署には、長いんですか?」 「『U機関』にか? いや。機関の発足自体、ほんの四ヶ月前のことだよ」  カトウにとって、それは初めて聞く話だった。

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