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第一章(⑩)

 カトウの言葉を聞いた軍人――アメリカ陸軍所属ジョー・S・ギル大尉、カトウの元上官は鼻でせせら笑った。 「休暇で里帰り中だ。俺がロサンゼルス出身だって昔、言ったよな。で、元部下が近所に住んでたことを思い出して、わざわざ探して訪ねに来てやったんだ。分かったら、茶ぐらい出せ」 「そんな上等なものが、あるように見えます?」  カトウは部屋を振り返った。地面に直接敷かれたマットレスと毛布を除けば、この部屋で目につくのは、テイク・アウトの食事の残骸を含む雑多なゴミくらいだ。ホームレスの生活と大差がない。  しかし、軍用犬並に鋭いギルの鼻は、ごまかされはしなかった。 「茶以外の葉は、買えてるようじゃねえか。あ?」  歯をむき出しにして、ギルは凶悪な笑みを口元に刻む。もっとも、カトウに向けた黒い眼には、笑いのカケラもなかった。 「その葉のせいで臭えことこの上ねえ。おい、まず立って部屋から出ろ、クソガキ」  カトウは無言でギルを見上げた。数秒。それから、 「…放っておいて下さい」とそっけなく言った。  ギルのこめかみが、ぴくっと動いた。これは怒り出すか、暴れ出すか、あるいはその両方の前兆だ。以前は恐ろしくてたまらなかったギルの反応。だが、鈍磨しきった今のカトウの心には、鈍い反応しかわきあがってこなかった。 「俺は、退役したんです」カトウは言った。 「もう、あんたの部下じゃない。命令に従う理由はどこにもないはずだ」  ギルはがっと戸口をつかむと、ずかずかと部屋に入って来た。 「もう一度、言うぞ」  それはいっそ静かなほどの口調だった。 「部屋から出ろ、カトウ」  カトウはギルから目をそらした。 「…いやだ」  言った途端、カトウは恐ろしい勢いで胸ぐらをつかまれた。「げっ」と思う間もない。  したたかに顔を殴られ、その勢いでカトウは壁ぎわまで吹っ飛んだ。地面に落ちる寸前、反射的に受け身を取ったが、それでも背中から叩きつけられた衝撃で息がつまった。 「――おら、立てよ。チビ助(ショーティ)」  ギルが床に唾を吐いて、近づいてきた。 「そんで殴り返して見ろよ。女顔のくそホモ野郎が。もう、俺はてめえの上官じゃねえんだからよ。殴れねえ理由なんて、ないだろう?」  分かりやすい挑発だった。冷静な状態なら、カトウは絶対に乗らなかっただろう。  ギルと素手で格闘をするくらいなら、ドイツ軍の機関銃座めがけて突撃する方が、まだましだ――仲間内でそうささやかれていたし、カトウも諸手を上げて賛同する立場だ。  しかし、この時ばかりはーー積もり積もった鬱屈が、怒りとなって身体に火をつけた。地面から跳ね上がり、カトウは元上官に向かって飛びかかった。 「はっ」とギルが鼻で笑う。カトウが繰り出したパンチはあっさり受け止められた。そのまま腕をつかまれ、地面に叩きつけられる。近接戦闘で、巨漢のドイツ兵をナイフで刺殺したことさえあるギルだ。堕落した生活で身体のなまったカトウを押さえ込むなど、造作もなかった。  馬乗りになった相手に、カトウは文字通りボコボコに殴られた。最初はまだ抵抗していたが、途中でその気力も尽きた。  ギルはカトウが気絶する一歩手前のところで、ようやく手を止めた。 「……まったく。手間かけさせやがって」  腫れあがったまぶたの下から、こちらを見下ろすギルがぼんやり見える。凶悪な顔には、嘲りもせせら笑いもなく、ただただ疲れ、哀しげに見えた。  

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