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第二章(③)

 運転席側に、武蔵野鉄道の線路が見える。富士見台駅の前を通り過ぎ、そのまま練馬へ。どうやら東へ向かっているらしい。  三月中旬で気温はまだ低いが、コートを着ているので寒くはない。むしろ頬に当たる風は、雪国育ちのカトウには気持ちよいくらいである。 「これから会いに行く男は、甲本貴助(こうもときすけ)という元日本軍の情報将校だ」  ハンドルを操りながら、クリアウォーターが言った。 「日本が(フランス)領インドシナやフィリピンを占領した時、甲本は第十四方面軍の占領区域で、ゲリラと第五列(潜入工作を行うスパイ)の摘発に当たっていた」  カトウは頭の中で情報を整理した。  アメリカ陸軍語学学校で日本語教育を受けた頃、すでに戦争は終わっていたが、戦争末期から終戦時点での日本軍の配置場所は簡単ながらも覚えさせられた。旧日本帝国陸軍の第十四方面軍は、確かフィリピン方面での作戦に従事した軍団のはずだ。 「甲本はマニラで負傷し、入院していたところを我々の捕虜になったんだ――」  クリアウォーターは、手際よく問題の男に関する情報を述べていく。  カトウは助手席で相づちを打ちながら、重要と思われる情報をノートにメモした。 ――それにしても、変わった人だ。  それがクリアウォーターに対するカトウの正直な感想だった。同性愛者であることを認めていることもさることながら、少佐ともなれば、もっと威圧的で偉そうにするものじゃないだろうか。クリアウォーターには、そういう所が不思議と欠けている。誰に対しても笑顔をたやさないし、フットワークも軽い。 「うちは少数精鋭だからね。身の回りのことは、自分でするよ」  給湯室で湯を沸かしていた少佐から話しかけられた時も、そういうことを言っていた。その言葉通り、クリアウォーターは勤務中に自分でコーヒーも淹れれば、こうして車の運転もする。それでいて、サンダース中尉やニイガタ少尉のような性格も経歴も異なる部下たちを――あのフェルミ伍長も含めて――よく統御しているようだった。 「ところでカトウ軍曹。君、射撃が得意だったそうだね」 「え? ……ええ、まあ」  ぼそぼそと、カトウは答えた。  クリアウォーターの変わり者ぶりもさることながら、「U機関」自体が、少し変わっている。メンバーの大半が拳銃の携帯許可をもらって、普段から銃をベルトに帯びているのだ。カトウも昨日、許可が下りて、新たに四十五口径の制式拳銃を支給されたばかりだった。  カトウはこの機会に、気になっていたことを聞いてみた。 「アイダ准尉から色々、聞かされましたが。仕事中に撃ちあうことは、よくあるんですか?」 「うーん。回数は多くないけど、たまにね」  クリアウォーターはにやりとした。 「もしも私が危ない目に遭っているのを見つけたら。君が私を守ってくれ」  冗談か、本気か、カトウには判断しかねる口調だった。  カトウはフロントガラスに目を向ける。そこに取りつけられたライフル・スカパードには、ガーランド銃が収まっている。また、カトウの座る助手席にはカスタマイズが施されており、背もたれの裏に、トミーガン(サブマシンガンの一種)がフックでかけられていた。  とはいえ、実戦を経験したカトウなどからすると実に心もとない装備だ。不意の襲撃を受けたとして、敵がよほどの少人数でない限り、この程度の火力では応戦もおぼつかないに違いない…。そこまで考えて、自分自身に少々あきれる。  何度も繰り返すが、ここは占領下の日本である。ティーガ―戦車の進撃を食い止めたり、機関銃座を制圧したりするために、無い知恵を絞って戦った日々は、もう過去の話だ。 「……最善は尽くします」  カトウのその言葉に、クリアウォーターは赤毛を陽に輝かせ、片目をウィンクさせた。困ったことに、実に決まっている。カトウはわけも分からず、気づくと顔をそむけていた。  ほどなく、ジープがスピードを落として停車した。  その場所は、鉄条網の取りつけられた塀に囲まれていた。メインゲートにかかげられた英字の看板をカトウは見上げる。  白地の看板には赤いペンキで「SUGAMO PRISON(巣鴨プリズン)」と記されてあった。

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