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第二章(⑫)

 カトウはうつむいた。誰にも話せぬ秘密を、恥じた時期は確かにあった。特にミナモリへの好意を自覚した頃は。自己嫌悪と気まずさと、ばれるのではないかという恐怖と――それでもつのる切なさで、死にたいくらいだった。 「……俺は、日系人ですよ」  カトウの弱弱しい抗弁は、即座に粉砕された。 「だから? アングロサクソンと、ジャパニーズ・アメリカンの恋愛を禁止するなんて、合衆国憲法のどこにも書いてないよ」  言ってから、クリアウォーターは表情をゆるめた。 「――私の父は、改革派の牧師でね。一九一二年にイギリス人女性だった母と結婚して、まもなく日本にやって来た。私は東京で生まれ、十二歳でアメリカに戻るまでずっと、この国で過ごしてきた」  それはカトウが初めて聞く、クリアウォーターの過去だった。 「BIJという言葉を知っているかい、カトウ?」 「…日本生まれ(Born in Japan)、ですか?」 「その通り。私にとって、日本はいわばもうひとつの祖国なんだ。初めて恋をしたのも、この土地でだった」  相手は、父親が日曜礼拝を行う教会に来ていた年上の日本人の少年だった。 「……といっても、君とは全然違うタイプの人だったよ」  クリアウォーターの声音に、追憶の色が混じる。  カトウは、その頃のクリアウォーターを想像した。赤毛を揺らし、街路を小走りに駆ける異国の少年。快活に笑うその姿は、きっと周りの人々を魅了したに違いない。  クリアウォーターは緑の瞳で、カトウをのぞきこんだ。その色はカトウに玉虫の美しい羽を連想させた。 「あのひとには、あのひとの美しさが。君には君の、美しさがある」  それを聞いたカトウは、すさまじくぶっきらぼうに言った。 「……美しいなんて、恥ずかしげもなく言わないでください」  もっとも、ゆでだこ同然の顔では、威厳もへったくれもありはしない。クリアウォーターが明らかに笑いをこらえていると分かれば、なおさらだった。 「それで。君の返事は?」  カトウは目を白黒させた。クリアウォーターの期待の眼差しが、まるで針のむしろのように感じられる。黙り込むこと十数秒。カトウはやっとのことで、口を開いた。 「……申し訳ありません。お断りさせて下さい」  クリアウォーターの顔に失望がよぎる。それにカトウはよけいにいたたまれなくなる。それでも、きっぱりと言った。 「とても、そんな気分になれないので」  二度と誰も愛さない。ミナモリだけが唯一の相手。  カトウはそう心に決めていた。  クリアウォーターが口を閉ざした。耐えがたい沈黙。不意に運転席から伸びてきた手に、カトウは身体を強ばらせた。だが、クリアウォーターはただ軽く肩に触れただけだった。 「――分かったよ。悪かったね。この十分間のことは、なかったことにしてくれ」 「………本当に、すみません」 「謝らないでくれ。余計にへこむから」  クリアウォーターはたいしたことではない、という顔でジープを発車させた。  それから荻窪にあるU機関にたどり着くまで、赤毛の少佐はたわいのない話で巧みに気まずさを埋めてくれた。カトウは相づちを打ちながらも、かすかな違和感を感じた。  悪路でジープが上下に大きく揺れた拍子に、ふとその理由に思い当たった。 ――ああ、そうか。今、この人は。平気なふりをしているだけだ。  思い返せば。クリアウォーターはいつも微笑んでいる。  誰に対しても愛想がよく、気さくで、あっという間に相手と打ち解ける一方で、甲本のような相手には、冷徹で容赦のない狩人のような顔を見せられる。まるで舞台の俳優だ。巧みにその場で必要な顔をつくって、演じることができる。  この人にとっては魅力的な笑顔ですら一種の武器で、本心を隠す堅い甲冑になっているんだ、とカトウは理解した。

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