26 / 264
第二章(⑬)
クリアウォーターがU機関の自身の執務室にもどると、仕事机の上に書類の束が置かれていた。そういえば、一階の資料整理部屋に顔を出した時、サンダースが言っていた。「先日の『貝原殺し』の一件について、報告書を書きあげて置いておきました」と。自分で淹れたコーヒー片手に、クリアウォーターはそれに目を通す。
まもなく退勤時間という頃、「とっとっと」と階段を駆け上がる足音が聞こえてきた。足音だけでクリアウォーターには来訪者が分かった。
ノックの音に、赤毛の少佐は報告書から顔を上げた。
「お入り。トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ伍長」
長いフルネームを呼ぶと、フェルミ伍長がドアから顔をぴょこんとのぞかせた。クリアウォーターと異なる理由で、フェルミはいつもにこにこしている。そして今は特に、上機嫌なように見えた。
「どうしたんだい?」
クリアウォーターが聞くと、フェルミ伍長は「えへへ」と笑った。
「見て、見て、ダン。上手に描けたんだ!」
フェルミは手にしていたスケッチブックを、クリアウォーターに差し出した。一目見て、「ほう」とクリアウォーターは感心した。
そこには、二階の翻訳業務室で作業にいそしむ四人の日系二世 の姿が描き出されていた。構図は少し、上から俯瞰したような感じだ。ちょうど、窓から部屋をのぞきこんだような……。
「トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ。君は、この絵をどこで描いたんだい?」
「えへ、気づいた? のぼったんだ。裏にある、おっきなクスノキ」
「危ないから、これきりにしなさい」
「えー。大丈夫だよ。ぼく、子どもの頃から、木のぼりしてたから。木の上からね、海と山がよく見えるんだ……それより、ちゃんと見てよ!」
フェルミにうながされ、クリアウォーターはスケッチブックのページを繰った。二枚目からは、一枚に一人ずつ。いずれもラフなスケッチだが、対象の姿かたちだけでなく、にじみ出る内面までも鉛筆の線で巧みに捉えられている。いかめしい顔つきのニイガタ。辞書を繰りながら、翻訳に集中するササキ。アイダが顔をこちらに向けているのは、おそらく窓の外の覗き魔に気づいて、そっとしておこうと決めたからだろう。そして一番最後に、ジョージ・アキラ・カトウ軍曹が現れた。
紙上のカトウは、繊細な造りの顔に物憂げな表情を浮かべ、どこか心あらずという様子だった。
――暗い? 陰気? 陰鬱? …いや、違うな。
クリアウォーターは頭の中で、知っている日本語の語彙を引っくり返した。
――儚 い、だ。
まるで、薄い氷でできた彫像だ。硬いようでいて、ひとたび触れたら、そのまま砕けて、融けて、なくなってしまいそうな、そんな雰囲気。フェルミのスケッチは、クリアウォーターが無意識に感じていたカトウの一面を見事に描き出していた。
「その絵、気に入った?」フェルミが崩れた顔の側に、小首を傾ける。
「気に入ったのなら、あげるよ」
「…いや、いい。せっかく描いたんだから、君が持っていなさい」
「そう?」
「私が見たくなったら、また見せてくれ」
「分かった――ねえ、ダン。お願いがあるんだけど」
「いつもの、かい?」
フェルミがこっくり、うなずく。クリアウォーターはフェルミのそばに立ち、線の細い身体を優しく抱きしめた。
それから桃のようにすべすべした右の頬と、火山の溶岩のように荒れた左の頬に、平等にキスをした。ややあって、フェルミがクリアウォーターを見上げた。
「…新しく来た、ジョージ・アキラ・カトウ軍曹。気になってるんでしょ?」
「まあね」答えて、クリアウォーターは苦笑いした。
「でも、ついさっきふられたよ」
「あれ、そうなの?」
「きっと、彼は赤毛の男は、好みじゃないんだろうね」
「あー。そうかもね」
こともなげに言い、フェルミは満足した様子で、クリアウォーターから離れた。スケッチブックを抱え、部屋から出て行こうとする。その途中で急にくるりと振り返った。
「でもさ、ダン。本当は、まだあきらめていないんだよね?」
クリアウォーターは珍しく返答に窮した。その顔を眺め、フェルミはまた「えへへ」と笑って、ドアの向こうに姿を消した。
ひとり残されたクリアウォーターは首を軽く振った。報告書にもどろうとしたところで、ふと思い立ってファイル・キャビネットに歩み寄る。腰のベルトから鍵の束を取り出し、ひとつを差してガラス戸を開けると、中から一冊のファイルを取り出した。
表紙にはタイプライターで「日米共同戦史編纂準備室・計画案」と記してあった。クリアウォーターはそれを開き、ぱらぱらとページを繰り出した……。
ともだちにシェアしよう!