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第二章(⑬)

 クリアウォーターがU機関の自身の執務室にもどると、仕事机の上に書類の束が置かれていた。そういえば、一階の資料整理部屋に顔を出した時、サンダースが言っていた。「先日の『貝原殺し』の一件について、報告書を書きあげて置いておきました」と。自分で淹れたコーヒー片手に、クリアウォーターはそれに目を通す。  まもなく退勤時間という頃、「とっとっと」と階段を駆け上がる足音が聞こえてきた。足音だけでクリアウォーターには来訪者が分かった。  ノックの音に、赤毛の少佐は報告書から顔を上げた。 「お入り。トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ伍長」  長いフルネームを呼ぶと、フェルミ伍長がドアから顔をぴょこんとのぞかせた。クリアウォーターと異なる理由で、フェルミはいつもにこにこしている。そして今は特に、上機嫌なように見えた。 「どうしたんだい?」  クリアウォーターが聞くと、フェルミ伍長は「えへへ」と笑った。 「見て、見て、ダン。上手に描けたんだ!」  フェルミは手にしていたスケッチブックを、クリアウォーターに差し出した。一目見て、「ほう」とクリアウォーターは感心した。  そこには、二階の翻訳業務室で作業にいそしむ四人の日系二世(ニセイ)の姿が描き出されていた。構図は少し、上から俯瞰したような感じだ。ちょうど、窓から部屋をのぞきこんだような……。 「トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ。君は、この絵をどこで描いたんだい?」 「えへ、気づいた? のぼったんだ。裏にある、おっきなクスノキ」 「危ないから、これきりにしなさい」 「えー。大丈夫だよ。ぼく、子どもの頃から、木のぼりしてたから。木の上からね、海と山がよく見えるんだ……それより、ちゃんと見てよ!」  フェルミにうながされ、クリアウォーターはスケッチブックのページを繰った。二枚目からは、一枚に一人ずつ。いずれもラフなスケッチだが、対象の姿かたちだけでなく、にじみ出る内面までも鉛筆の線で巧みに捉えられている。いかめしい顔つきのニイガタ。辞書を繰りながら、翻訳に集中するササキ。アイダが顔をこちらに向けているのは、おそらく窓の外の覗き魔に気づいて、そっとしておこうと決めたからだろう。そして一番最後に、ジョージ・アキラ・カトウ軍曹が現れた。  紙上のカトウは、繊細な造りの顔に物憂げな表情を浮かべ、どこか心あらずという様子だった。 ――暗い? 陰気? 陰鬱? …いや、違うな。  クリアウォーターは頭の中で、知っている日本語の語彙を引っくり返した。 ――(はかな)い、だ。  まるで、薄い氷でできた彫像だ。硬いようでいて、ひとたび触れたら、そのまま砕けて、融けて、なくなってしまいそうな、そんな雰囲気。フェルミのスケッチは、クリアウォーターが無意識に感じていたカトウの一面を見事に描き出していた。 「その絵、気に入った?」フェルミが崩れた顔の側に、小首を傾ける。 「気に入ったのなら、あげるよ」 「…いや、いい。せっかく描いたんだから、君が持っていなさい」 「そう?」 「私が見たくなったら、また見せてくれ」 「分かった――ねえ、ダン。お願いがあるんだけど」 「いつもの、かい?」  フェルミがこっくり、うなずく。クリアウォーターはフェルミのそばに立ち、線の細い身体を優しく抱きしめた。  それから桃のようにすべすべした右の頬と、火山の溶岩のように荒れた左の頬に、平等にキスをした。ややあって、フェルミがクリアウォーターを見上げた。 「…新しく来た、ジョージ・アキラ・カトウ軍曹。気になってるんでしょ?」 「まあね」答えて、クリアウォーターは苦笑いした。 「でも、ついさっきふられたよ」 「あれ、そうなの?」 「きっと、彼は赤毛の男は、好みじゃないんだろうね」 「あー。そうかもね」  こともなげに言い、フェルミは満足した様子で、クリアウォーターから離れた。スケッチブックを抱え、部屋から出て行こうとする。その途中で急にくるりと振り返った。 「でもさ、ダン。本当は、まだあきらめていないんだよね?」  クリアウォーターは珍しく返答に窮した。その顔を眺め、フェルミはまた「えへへ」と笑って、ドアの向こうに姿を消した。  ひとり残されたクリアウォーターは首を軽く振った。報告書にもどろうとしたところで、ふと思い立ってファイル・キャビネットに歩み寄る。腰のベルトから鍵の束を取り出し、ひとつを差してガラス戸を開けると、中から一冊のファイルを取り出した。  表紙にはタイプライターで「日米共同戦史編纂準備室・計画案」と記してあった。クリアウォーターはそれを開き、ぱらぱらとページを繰り出した……。

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