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第二章(⑮)
W将軍の申し出をクリアウォーターが承諾してから、話はとんとん拍子に進んだ。一九四六年の十一月、東京郊外の荻窪にある洋館で、日米共同戦史編纂準備室、通称『U機関』が発足。UはUnknown(知られていない)の頭文字から、W将軍がとって名付けたものだ。そして発足と同時にクリアウォーターたちに最初の任務が与えられた。
その任務こそ、関東地方に出回る麻薬の売買ルートを摘発し、これを叩き潰すことだった。
対敵諜報部隊 で隠匿物資の摘発に当たっていた頃から、麻薬はクリアウォーターにとって、もっとも頭を悩ませる問題のひとつだった。
日本が敗戦したその年から、都内各所でヤクザや街娼、外国人、さらには復員兵らによる所持が相次ぎ、さらにその範囲が拡大する予兆を見せていた。GHQの参謀第二部 が、傘下の対敵諜報部隊 に命じて水面下で調査・摘発に当たったのは、何より占領軍兵士への使用拡大を恐れたからである。
クリアウォーターは当初、横須賀や横浜など、港湾都市に狙いをつけ、そこを中心に調査を進めた。流通する麻薬の大半が、それら港湾を通って流入すると考えられたからだ。実際に、何度か取引の現場を押さえ、その都度、キロ単位の押収に成功している。
それにもかかわらず、流通量が衰える気配は一向になかった。
クリアウォーターはあきらめずに、丹念な調査を続けた。日本警察が逮捕した売人に尋問を行い、その供給元を白状させる。日本人協力者を使って、おとり捜査をさせる。情報をキャッチして取引現場へ向かい、銃撃戦の末、押収と関係者逮捕を成功させたこともあった。
そして、最後にある可能性が浮かび上がってきた。
東京都内のどこかに、大量の麻薬が隠匿されている。現在、関東に出回っているものは、そこから運び出されて売買されている、と――。
クリアウォーターはその場所を探るために、ひとりの男を起用した。
その男こそ、以前から仕事で付き合いのあった情報屋、貝原靖 だった。
二月の冷え込みの厳しい晩、変装したクリアウォーターはサンダースをともない、都内のレストランの個室で貝原に会った。貝原は中背の優男で、なかなかの洒落者である。この日もあつらえたばかりの外套の下に、暖かそうなセーターにスラックスという出で立ちで現れた。もっとも、本人は笑いながら、いつも金欠だとぼやいていたが。
貝原が酒とつまみを注文したところで、クリアウォーターは何人かの日本人の写真と、彼らについての経歴書を見せた。
「この男たちを尾行し、接触する人間をマークして欲しい。順番は、君にまかせる」
「何者っすか、この連中?」
ブロークンな英語で聞く貝原に、クリアウォーターは答えた。
「泳がせている麻薬の売人だ。ただし、末端の者ばかりだ」
「へえ…なるほどね。誰がこいつらに、いけないお薬をおろしているのか、突きとめろってことで?」
軽そうな外見と裏腹に、頭の回転は速い男である。クリアウォーターはうなずいた。
「接触し、麻薬を売っている者を探り出したら、私に報告してくれ。そして次は、その男たちを尾行し、接触してくる人間を探ってもらう」
クリアウォーターの作戦は、むしろ単純なものだ。芋づる式に、売人を追っていく。時間はかかるだろうが、いずれは麻薬の供給源に行きつくはずだ。
当初、クリアウォーターは日系二世の捜査官から志願者をつのり、日本人に化けさせてこの仕事を行わせるつもりだった。しかし、対敵諜報部隊 からU機関に「島流し」になった時、彼が連れて行くことができた日系二世は、ニイガタとアイダだけだった。
まずアイダは除外した。以前、このような捜査にクリアウォーターはもっぱらアイダを使っていたが、この右足に障害をかかえる男が不自由な足が原因で窮地に陥りそうになって以来、潜入捜査からは遠ざけていた。
一方、ニイガタについても真剣に考えた上で、却下せざるを得なかった。語学兵として得がたい資質の持ち主だが、短気な人柄や去年巻き込まれたトラブルへの対処方法から考えて、この手の密偵任務には不向きと判断せざるを得なかった。
こうして、クリアウォーターは貝原に助力を求めたしだいだった。
尾行は危険な任務だ。ばれた場合、撒かれるのはまだましなほうで、待ち伏せされて逆に囚われの身になる可能性は常につきまとう。裏社会を相手取って生計を立てている貝原も、そのことは十分にわきまえていた。
「やってくれるか?」というクリアウォーターの言葉に、貝原はアメリカ人をまねて肩をすくめる仕草をする。それから黒い眼を赤毛の男に向け、にんまり笑った。
「報酬しだいっすね。だんな」
貝原は、クリアウォーターの本名や正式な所属を知らないことになっている。クリアウォーターが自分からそれを明かすことはなかったし、貝原も聞いてこなかった。
これまで歩んできた人生から、二人とも必要以上に踏み込まない関係に慣れている。そして大抵の場合、どちらも相手について口に出す以上のことを知っているとは、おくびにも出さなかった。
貝原靖の本名は、木原精一 という。
日本の諜報員養成機関として知る人ぞ知る、陸軍中野学校の卒業生であり、大戦中はインドネシアに派遣され、当地で情報収集と謀略活動に当たっていた。クリアウォーターの調べたところでは、一九四五年の年初頃、木原精一は上官の許可を得ずに任務を放棄し、行方をくらます。その後、いかなるルートをたどったか分からないが、とにもかくにも日本に戻って来た。そして木原精一の名前を捨て、貝原靖を名乗り、情報屋として活動し始めた。
貝原個人について、クリアウォーターは他に直接的接触から知っていることもあった。
たとえば本人も気づいていない背中のほくろとか、遊んでそうな外見と裏腹に案外、キスが下手なこととか。いずれもクリアウォーターが同性愛者と知った貝原が、興味本位で軽く誘いをかけ、クリアウォーターがそれに乗った時に知ったことだ。もっともクリアウォーターに抱かれた翌日、貝原はふとんの中で「…二度とごめんっす」と恨み言をつらつら並べ立てていたが。
それでも、二人はもう一度だけ関係を持った。
クリアウォーターは貝原に興味を持ったが、貝原の側が関係を続けることを拒んだ。
「誰かの命令に一方的に従うのは、もうこりごりでしてね」
行為のあと、ふとんの中から起き上がり、貝原は煙草に火をつけた。煙と一緒に、浅くため息をつく。
「俺は弱い人間なんで。このまま関係を持ち続けたら、いずれ色んな面であんたに支配されそうだ。そいつは、ちょっと嫌なんで…」
煙草を灰皿の上でつぶし、貝原はクリアウォーターを見つめる。
最後となった口づけは、最初にした時と同じだ。ぎこちなくて、彼が喫ったばかりの煙草の味がした。
「あんたは仕事を依頼する。俺はそれを引き受ける。俺は依頼が気に入らなければ断れるし、失敗すればあんたは報酬を出さなくていい。そういうシンプルで対等な関係が、俺には一番いいからーー」
貝原は身体を離した。
「だから、これで終わりにしましょう」
戦争終結から二年。すでに海外にいた日本兵たちが、続々と復員してきている。その中には、貝原のように戦中の身分をうまく隠し、故郷の土を踏む者もいれば、中には敵軍の捕虜となり、「教育されて」戻ってくる者もいる。参謀第二部 は、ソ連からの復員兵が共産主義に染まるだけでなく、彼の国の諜報機関の手先となって日本社会に戻って来ることを特に警戒しており、対敵諜報部隊 の人員を動員して、京都の舞鶴港で厳しく調査に当たらせていた。
それでも迎え入れてくる家族のいる者は、まだ幸せだ。日本の大都市の大半は、空襲により焦土と化し、民間人だけで何十万もの死者を出した。家も家族も失った者の中には、貝原のように生活のために、かつての敵方と手を結ぶことを選ぶ者もいる。
あるいは、もっと別の形で生きる者も。
貝原靖を殺害した『ヨロギ』のように。
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