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第二章(⑯)

 カール・ニースケンス中佐とクリアウォーターの恋愛関係は一九四四年の夏に終わった。ニースケンスが、とあるパーティで知り合った貿易商の娘と婚約したからである。その数ヶ月後、クリアウォーターは久方ぶりにニースケンスとまともに話をする機会を得た。 「――『ヨロギ』の捜査は、難航しているみたいですね」  ブリスベン市内の高級酒場。そのボックス席でクリアウォーターは慇懃に言った。  斜め一フィートの距離に、ニースケンスが座っている。その距離だけは親密な頃のままで、互いの心はすでに数百マイル離れている。  元恋人である陸軍中佐の顔には、濃い疲労が刻まれていた。己の本心に背いた婚約が原因か、とクリアウォーターは思ったが、それだけではなかった。 「『ヨロギ』の捜査は打ち切りになった。上から、中止の命令が出たんだ」  その言葉を聞いたクリアウォーターは、信じられない思いでニースケンスを見つめた。 「腐った一個のリンゴのために、数千のリンゴを捨てることはできない。それが理由だ」  ニースケンスのひと言で、クリアウォーターは彼が言わんとすることを理解した。  『ヨロギ』は日本軍のスパイとして、オーストラリアのブリスベン市に潜伏していた。そこは連合国軍太平洋司令部をはじめ、さまざまな軍事に関わる機関が置かれており――大勢の日系二世(ニセイ)が、語学兵として各部署で働いていた。ブリスベンだけではない。日本軍と戦う前線各地で、さらにデリー、ホノルルといった後方基地で、さらにアメリカの本土(メインランド)で、日本語に精通した語学兵たちが毎日、前線から送られる膨大な量の日本語の情報を、英語に翻訳し、捕えた日本人捕虜を尋問して、リアルタイムの情報を連合国軍にもたらし続けてきた。そこには、日本軍の各軍団の現在位置、彼らが立てる作戦案、さらに日本本土に展開する重要な軍事工場の位置や、そこで生産される武器弾薬の種類や量までもが含まれていた。  日本語を身につけた語学兵が戦場に送り込まれた当初、どれほど役に立つものか、大半の軍人は疑問に思っていた。特に、アメリカに対する日系人たちの忠誠が強く疑問視されていた頃は。しかし、語学兵によってもたらされる情報は、時間が経つにつれ、質量ともに軍や政府の予想を大きく上回るようになった。  そして一九四四年現在。語学兵の大部分を占める日系二世(ニセイ)の存在を抜きにして、日本との戦争を遂行することは考えられない段階に来ていた。  ニースケンスはウィスキーを一口すすり、グラスから口を離した。 「…君も知っての通り、『ヨロギ』が発信した情報はどれも非常に新鮮(フレッシュ)で、精度も高いものだった。それが入手できる人間は限られている。何より『ヨロギ』は日本軍の暗号を使って、情報を発信していた。これらを考え合わせると――その正体は予想がつくだろう?」  周囲の喧騒が、すっと遠のく。クリアウォーターは、ニースケンスにだけ伝わるほどの小声で答えた。 「――『ヨロギ』は、日系二世(ニセイ)の語学兵のひとりである可能性が高い、ということかい?」

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