30 / 264
第二章(⑰)
――腐った一個のリンゴのために、数千のリンゴを捨てることはできない。
戦争終結から一年半が経った現在でさえ、アメリカでは市民社会においても、また軍隊においても、日系人に対する偏見が根強く残ったままだ。日本に対するプロパガンダが、新聞や雑誌を飛び交っていた大戦中ともなれば、言うまでもない。
ただ一人、裏切り者がいるだけで、日系語学兵全員の忠誠の在り処が疑われてしまう。
日系語学兵を対日戦の切り札として使うアメリカ軍にとって、その事態だけは何としても避けなければならなかった。一方で、一九四四年の後半期、すでに日本の敗戦は明らかになりつつあった。『ヨロギ』がどれほど情報を送ろうと、連合国の勝利はもはや揺らぐことはない。
それはいわば、天秤にかけた結果だった。軍の上層部もニースケンスも、そして彼らの考え方を理解し、黙認したクリアウォーター自身も。日系語学兵の名誉を守り、そして彼らを戦争遂行の、そして戦後の占領統治の駒として使い続けるために――『ヨロギ』を野放しにした。
その結果、貝原靖はかつて同じ陣営で戦っていたはずのスパイによって、殺害されたのである。
……時計に目をやると、すでに六時を回っていた。クリアウォーターは、ファイル・キャビネットから、一冊の箱型ファイルを取り出した。その表紙には横文字で『Yorogi 』と記されている。ファイルを開けたクリアウォーターは、ニースケンスから送られてきた資料の上に、サンダースがまとめてくれた貝原殺しの報告書を置いた。
――シンプルで対等な関係が、俺には一番いいから。だから、これで終わりにしましょう。
貝原が望んだ通り、クリアウォーターはこの男との関係をそれ以上、進展させることはなかった。続いたのは仕事上のつきあいだけで、少なくとも表面上は互いに満足していた。
それでも口づけた時に香ってきた煙草の匂いと味を、クリアウォーターはまだ舌の上で思い出すことができた。
貝原靖がなぜ『ヨロギ』によって殺害されるに至ったのか、その理由はまだ定かでない。彼に依頼した麻薬売人の捜査と関係しているのか、それともまったく関係のないところに原因があったか。
だが、クリアウォーターがやるべきことはただひとつである。
「――『ヨロギ』は、私が必ず捕まえてやる」
クリアウォーターは、記憶の中の貝原にそう誓った。
――――――
U機関にもどった後、カトウは翻訳業務室での仕事にほとんど集中できなかった。
そのせいでいつもにも増してひどい翻訳をし、ニイガタに大目玉をくらった。さらに仕事が終わった後、誘われて一緒に食事に行ったがそこでも上の空だった。
「昼間の通訳の仕事、そないに大変じゃったんか?」
心配と好奇心をないまぜにして、聞いてきたのはササキだ。カトウは答えにつまったが、幸いアイダが助け船を出してくれた。
「少佐から、口止めされているんだろう。あまり詮索してやるな」
寮の自分の部屋に戻る頃、カトウはくたびれきっていた。倒れ込んだベッドの上で枕に顔をうずめる。なぜか分からないが、真っ先にクリアウォーターの顔が浮かんだ。
――顔が真っ赤だよ。
そう言った時、クリアウォーターがこぼした笑みが、どうにも頭から離れない。普段、彼が浮かべている、人に見せるための笑みとは違う。本当にカトウの反応がおかしくてたまらない、という感じで。ひどく……印象的だった。
――そういえば、キスできるくらいの距離だったな。
ぼんやり思い、そんな不埒な考えをする自分に気づいて、カトウはぎょっとなった。もうだめだ。今日はくたびれている。とにかく寝よう。
脱いだ服を畳む気力もなく、カトウはそれを無雑作に床に放り出した。そして下着だけの姿になると、電気を消してベッドに横たわり、目を閉じた――。
ともだちにシェアしよう!