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第三章(①)
……かすかに漂うコーヒーの香りで、カトウは目を覚ます。
その途端、手足の感覚が軽い痛みを伴ってもどってきた。寝ている間に身体は冷え切って、檜の枝のように強ばっていた。寝不足で腫れぼったい目を、カトウは手のひらでこすった。指の関節を何度か曲げ、目を上へ向けると、うっそうと茂る針葉樹の間から明けた空が見えた。
周囲が少し騒がしい。どうやら仲間たちの大半は、すでに起き出して活動を始めているようだ。タコツボを共有していたミナモリもとっくに起き出したらしく、姿がなかった。
身についた習性で、カトウは最初に武器を確認した。愛用のガーランド銃。腰のマガジン・ベルトに差したクリップ(弾丸が八つ入る装弾子)は、あと五つ。手りゅう弾は残り一個。普段使わない拳銃だけは、まだ弾に余裕がある。
タコツボのふちから、カトウはそっと両目をのぞかせる。野戦服で歩いているのが、「ドイツ野郎」でなく仲間の日系二世 たちと認め、ようやく穴からはい出した。
カトウが息を吐くと、朝靄の中でそれは白くにごった。タコツボの外に立つと、コーヒーの匂いがいっそう濃く明瞭になる。おかしなものだ。昨日の朝など、かなり近くにドイツ軍の砲弾が落ちたというのに、ミナモリに叩き起こされるまで、ぐっすりだった。それなのに、今朝はコーヒーの匂いを嗅ぎつけて、そそくさと起き出している。きっと、神経があちこち狂い始めているのだろう。
フランス国境の森林地帯にトラックで運ばれ、戦闘がはじまったのが十月十五日だった。そして、今日は――……何日だっけ? とりあえず一九四四年であることと、まだ十月であることは間違いないだろうが、日付の方はあまり自信がない。休みを与えられないまま、一週間は戦い続けている。すでに周りでは、寒さが原因で体調を崩す者が続出していたが、それでも他の部隊と交替させられる気配は微塵もなかった。
薄暗い視界の中に、カトウはミナモリを探した。長身の彼を見つけるのは、割合に簡単だ。そして偶然、向こうもカトウに気づいて、片手を軽く上げて近づいてきた。
ハリー・トオル・ミナモリは、カトウより一つ年上で今年二十一歳になる。どちらかと言えば物静かな性格で、仲間とつるんでサイコロ賭博に興じるより、ひとりで本を読むのを好むようなちょっと変わった青年である。しかし、カトウとは不思議と会った当初から気が合った。
ミナモリは、ハワイ出身の仲間たちから「ノッポ 」のあだ名で呼ばれていた。彼の日本名が「トオル」であることが名づけの理由というが、実際に日系兵の中でも背がかなり高く、五フィート九インチ(約百七十六㎝)ある。それと対比されるように、ミナモリのそばで過ごす時間が増えたカトウは、知らぬ間に周りから「チビ助 」と呼ばれるようになった。
「ノッポ 」と「チビ助 」――仲間からも、そして二人が属す中隊(二百名程度で構成される戦闘部隊)の中隊長ジョー・S・ギル大尉からも、ミナモリとカトウはセット扱いされるのが常だ。
「おはよう、アキラ」
そしてミナモリだけが、カトウを本名で呼んでくれるのだった。
「おはようございます。ミナモリ小隊長どの」
カトウが茶化すと、ミナモリは「やめろ」と空いている方の手の甲で、カトウの肩を軽くこづいた。ミナモリは昨日、所属する小隊の小隊長になったばかりだった。前代の小隊長は二日前に、ドイツ軍の砲弾に片足を皮一枚残してえぐられ、後方へ移送されていた。
負傷三人、死亡一人。カトウとミナモリが補充兵の一員として参戦した六月以来、四ヶ月の間で実に四人の小隊長が交代した。ミナモリは五人目だ。
「ちょうど、いいタイミングで起きたな。コーヒー沸かせたから、起こしに行こうと思っていたところだ」
そう言って、片手に持ったカップをカトウに差し出す。受け取りかけたカトウは、途中ではたと手を止めた。
「お前はもう飲んだのか、トオル?」
ミナモリがあいまいな顔になる。カトウはため息をつき、自分の背嚢からブリキのカップを取り出した。
「俺は一口でいい。残りはお前が飲めよ」
今度はミナモリが首を振る番だった。長い足を器用に折って地面にあぐらをかくと、カトウから受け取ったカップに、均等にコーヒーを注いだ。その間にカトウは背嚢に手をつっこんで、隠し持っていた最後のチョコレートバーを二本、取り出した。
「今、食べろ。ほかの奴にはやるな」
カトウはわたす前に、念押しした。
「お前がしっかりしていないと、小隊のみんなが困るんだ」
「…分かったよ」
ミナモリは、あっさり降参した。周囲を見渡すと、それぞれが緊急用に取って置いた野戦食 の残りや缶詰で、粗末な朝食を取っていた。カトウとミナモリも向き合って座り、ぬるいコーヒーをすすって、チョコレートをかじった。
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