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第三章(②)

「昨日の夜も、補給部隊は来なかったらしい」  ミナモリは暗い声で言った。 「弾薬はまだ残っているが、食糧は底をついた。医薬品もやばい」 「…俺たち。ほかの大隊(千名程度で構成される戦闘部隊)とも、ずい分離れているんだよな?」 「ああ」 「後退の命令は?」 「少なくとも、俺は聞いていない。それどころか、午前中にふもとの村へ下りて、そこをドイツ軍から奪還しろとのことだ」 「………」カトウは言葉が出て来なかった。  孤立。包囲。全滅。いやな単語ばかりが頭に浮かんだ。 ――何でこんなことになっている?   どう考えても、異常だった。食糧が尽き、戦うための弾薬も尽きかけているのに、まだ前進しろなんて。そんなことをすれば、ドイツ軍のいいカモになるだけだ。  その時、少し離れたところで、わっと歓声が上がった。カトウが首をめぐらすと、他の小隊の連中が、数日前に鹵獲したドイツ軍の炊事車を囲んで、何やらにぎやかにしていた。  「何やってんだ、あいつら?」 「ああ。向こう見ずな連中が、夜中の内に村の畑に下りて、無断で野菜を略奪してきた。それで、スープを作ったみたいだ」 「……バカだろ」 「まあ。豚じゃないだけ、まだマシだな」  ミナモリの言葉に、カトウはつい笑ってしまった。訓練兵時代、ハワイ出身の日系二世――ブダヘッドの何人かが、駐屯地近くで放し飼いにされていた農家の豚を勝手に捕まえて、料理して、食べてしまった事件があったからだ。農家に訴えられた連隊は平謝りし、悪童どもの犠牲になった豚の代金を支払うはめになった。  一度笑いだすと、それは発作のように中々おさまらなかった。やっぱり、神経が少しおかしくなっている。ミナモリは「笑い過ぎだ」と呆れたが、しまいに彼自身もくすくす笑い出した。 「――おーう。まだ元気そうだな、クソガキども」  背後から上がった声に、カトウは飛びあがった。コーヒーをほとんど飲み終えていたのが幸いだ。ミナモリも立ち上がり、突然あらわれた上官に慌てて敬礼した。  いつの間に背後に忍び寄られていたのか、まったくの謎だ。中隊長ジョー・S・ギル大尉の凶相は、連日の戦闘のせいで、般若の面のように見えた。カトウとミナモリ、それから炊事車を囲む連中を眺め、ギルはふんと鼻を鳴らした。 「元気がある内は、まだ救いがある――それがなくなったら、いよいよおしまいだからな」  それから、ミナモリに向かって「全員を集合させろ。五分後に出発だ」と言った。  目標の村まで、たいした抵抗を受けることなくカトウたちは進軍した。  高い尖塔を備えた教会がある典型的な田舎の村。その畑に下りると、ドイツ軍のティーガー戦車が一台、乗り捨てられていた。歩いていると、前方を進む別の中隊から、逃げ遅れた通信兵を捕虜にしたという報せが入った。カトウたちはドイツ兵が隠れていないか、家や納屋を一軒一軒のぞいて確認していったが、見つけたのは、元々ここに住まうフランス人の家族だけだった。  そして村の占領が無事完了すると、急いで陣地を固め始めた。  誰かが、命じた訳ではない。だが、ほとんどの兵士はドイツ軍がわざと村を手放し、アメリカ軍の前に差し出したと正しく理解していた。自分たちを孤立させ、逃げ場のない隘路に引きずり込めば、あとは思いのままだ。それが分からないのは、カトウたちに無理な前進を重ねさせ、この危険な状況を作った司令官くらいなものだろう。  中隊長であるギルの命令で、カトウの属す小隊は森と村との境界に布陣した。  小隊は本来、十二名から成る分隊が三つ、そして小隊本部五名の計四十一名から成る。しかし、連日の戦闘で死傷者が相次ぎ、カトウの属す小隊はすでに三十名を割っていた。補充兵が送られはするのだが、それが追いつかぬ速度で消耗しているのだ。本来、二百名ほどで構成される中隊も、今や百四十名の兵士を数えるだけになっている。  小隊長たちを集め、ギルは戦闘の方針を簡単明瞭に宣言した。 「とにかく自分の陣地を守れ――ドイツ野郎を、一人たりとも村に入れるな」  配置地点についたカトウは短い時間でガーランド銃の動作確認を行った。頭をめぐらせると、五十メートルほど離れたところで、ミナモリが矢つぎ早に指示を飛ばしている。朝食を共にして以来、小隊長として務めを果たすのに忙しいミナモリと、言葉を交わす時間も機会もない。ただ目の端に彼の長身を確認することで、カトウは満足するほかなかった。  慌ただしく時間が過ぎる。そして午後二時にさしかかる頃だった。  突然、村を囲む森の中から、迫撃砲弾の猛烈な連射が轟いた。その爆音に誰もが一瞬で理解する。  戦闘の幕が切って落とされたのだ、と。

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