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第三章(④)
四方から迫るドイツ軍の進撃を、カトウたちの大隊はなんとかしのぎきった。
翌朝、補給部隊が半ば孤立していた大隊を見つけ、ようやく食糧と弾薬の心配が解消された。その日の夕方には、同じ連隊に属す他の二つの大隊も追いついてきた。そして、さらに翌日、後方にある別の村で、カトウたちは四日間の休息を取ることを許可された。日付を確かめたら、すでに十月二十四日になっていた。
村に入った数時間後、カトウは幸運にもシャワーを浴びることができた。連隊所属の工兵中隊による、創意工夫の最高傑作。移動式シャワーユニットの巡回に、運よくめぐり合うことができたからだ。温水で十日分の汚れをこそげ落とし、乾いたシャツを着ただけで生き返った気分がした。
しかし、安心は長くは続かなかった。
すでに翌日に不吉な予兆は現れた。その日の午後になって、休息中のはずのカトウたちに、出動待機命令が出されたのである。さらに次の日の早朝、カトウたちと合流した別の大隊に出動命令が下った。
「一体、どうなっているんだ。四日間、全員が休めるはずじゃなかったのか?」
あちこちで噴き出した不満の声には、微量の不安がにじんでいた。十日間も戦い続け、ろくに休息も取れないまま、再び戦場に投入させられるなど、誰にとってもたまったものではない。
「何が起きているのか。ギル大尉に聞いたけど、答えてくれなかった」
夜になって納屋に戻って来たミナモリの言葉に、小隊の全員が落胆の声をもらした。それでも、
「仕方がない。とりあえず、今の内に寝ておくこっちゃ」
建設的な結論がでるだけ、まだ救いがある。もちろん、それに反対する者は誰もいなかった。
カトウは昼間、ガーランド銃の掃除と食事で起き上がる時以外、ほとんどの時間を寝袋で寝て過ごした。ひとたび気がゆるむと、疲れがどっと出る。いつものことだ。
それでもミナモリは、ずっと心配顔だった。夜の歩哨任務に就く前、ノッポの青年はこの日何度目か、カトウの顔をのそきこんだ。
「本当に、どこも悪くないのか?」
「大丈夫だって」
カトウは眠たげな声で答えた。ミナモリに気遣ってもらえるのは素直にうれしい。たとえ、ミナモリが小隊の他のメンバーにも同じように体調を尋ねていると知っていても。
ミナモリと少し話したい気がしたが、とにかく眠かった。うとうとしていると、ミナモリが近づく気配がした。続けて、額に固くも柔らかくもないものが当たる。
何だ、と目を開けたカトウは、そのまま硬直した。
まつげが触れ合うほどの距離に、ミナモリの澄んだ瞳が見えた。
「――うん。確かに、熱はないみたいだ」
自分の額をカトウの額に当てながら、至って真面目な口調でつぶやく。平然としたミナモリと対照的に、カトウの顔は真っ赤になった。暗いおかげで、ミナモリにそれを見られることはなかったが。
永遠と思える数秒の後、ミナモリは、ひょいと額を離した。
「すこしでも寒気がしたり、熱っぽかったら、すぐに言えよ」
それから、ガーランド銃を肩にかけ、納屋から出て行った。その背中が見えなくなった頃、カトウはようやく口の中で毒づいた。
「ガキ扱いすんなよ! ……バカ」
昼間、寝過ぎたせいかだろうか。カトウは変な具合に目が冴え、寝袋の中でまどろんでは覚めるということを繰り返した。周りでは、いびきと歯ぎしりと寝言の三重奏が、今夜も変わらず奏でられている。
カトウが何度目かの寝返りを打った時、すぐそばで「ン……」と鼻にかかった声がした。
目を開くと、数インチと離れていないところでミナモリが眠っていた。歩哨任務を済ませ、いつの間にか戻って来ていたらしい。寝息は穏やかで、すでに熟睡しているようだった。
カトウは息を殺し、その整った寝顔を見つめた。本人に自覚は薄いが、実に見目のいい男である。小麦色の肌に、ややウェーブのかかった黒髪。涼しげな目元、くっきりした鼻梁。唇はほどよい厚さで、歯並びもきれいだ。一緒にジュークボックスのある酒場やダンスホールに行った時、女性たちが次々群がってくるのをカトウは何度も目撃している。
「ノッポ の奴、また資源を独占しとるわ」
あたかもミツバチを引き寄せる香りのいい花のように、女性に囲まれ困惑するミナモリを、ハワイのブダヘッドたちはやっかみ半分、野次るのが常だ。それにカトウも時々、悪乗りして加担することがあった。
だが本心ではーーミナモリが女の一人とつきあうことを、密かに恐れていた。
眠るミナモリの頭が軽く揺れ、黒髪が額にかかる。カトウはどぎまぎしながら、波打つ髪に指でそっと触れた。それだけで、自分の身体が内側から熱くなってくるのが感じられた。
ごくりと、カトウはのどをならした。
ゆっくり、ミナモリに顔を近づける。口から洩れる息の温度まで感じられる距離まで――。だが、そこでカトウは止まった。
それ以上、どうしても近づけなかった。
ミナモリの唇に口づけたら、一体どんな感触がするだろうか。いや、感触なんてこの際どうでもいい。結果は分かりきっている。きっと味わったことのない満足感を手に入れて――。
それと引き換えに、二度と口をきいてもらえなくなるに違いない。
カトウは自分の寝袋に顔をうずめた。
……一体、いつ頃からだったか。上背のある男に、知らず知らずの内に目を奪われ、顔が火照るようになったのは。最初は、自分の背が低いことに対する劣等感が原因だと思い込もうとした。だが十代も半ばを過ぎると、いつまでも自分を欺き続けることはできなくなった。
――同性愛者。
もともとコンプレックスだらけだったところに、さらにひとつ大きな劣等感の要素が加わった。カトウはその頃すでにアメリカに戻り、父親とロサンゼルスにあるアパートの一室で暮らしていた。アメリカの社会で同性愛者がどう見られているか、カトウは早い内に学んでいる。
だから当然の選択として、隠すことを選んだ。今まではそれでうまくいった。誰かに憧れても、距離を取って見ないようにすれば、どうにかやり過ごすことができた。
志願して、飛び込んだ陸軍の駐屯地で、ハリー・トオル・ミナモリに出会うまでは。
ミナモリと出会って、カトウは初めて理解した。
恋に狂うということが、何を意味するか。
朝に目覚めてから、夜に眠りにつくまで、気をゆるめるとミナモリのことばかり考えるようになった。食事をしている時も、運動場を走っている時も、腹這いになって射撃訓練をしている時も。眠っていも夢に見ることがしょっちゅうで、その夢の中でカトウは自分がミナモリに何を望んでいるか、この上なく赤裸々な形で見せつけられた。
そして起床ラッパの音で目覚めると、隣りのベッドでミナモリは伸びをし、寝癖のついた髪をなでつけながら、カトウに言うのだ。
「おはよう、アキラ」と。
この上なく甘い、それは間違いなく拷問だった。
――トオルが好きだ。
抱きしめたい。
キスをしたい。
裸で抱き合って、互いの身体のすみずみまで融け合うくらいに触れ合いたい。
それから……。
カトウは歯で唇をかみ、目を固くつむった。
何百回も繰り返した妄想を、何百回目か打ち消す。
――トオルが好きだ。
でも、本心を打ち明けて嫌われるくらいなら。
友人でいた方が、まだましだ。そのはずだった。
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