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第三章(⑤)

 それは真夜中過ぎのことだった。 「全員、起きろ!」  カトウたちが眠る納屋の扉を蹴り破り、ジョー・S・ギル大尉がやって来た。せせら笑いを浮かべた凶悪な顔は、戦意高揚ポスターのモデルに選ばれても不思議ではないだろう。――アメリカと世界の平和をおびやかす悪の将軍として。 「喜べ。ピクニックには、おあつらえ向きの天気だ」  ギルの黒髪から、冷たい滴がしたたり落ちる。背後では細かい雨が銀糸のように舞っていた。全員起きたところで、大尉は腹のすわった声で命じた。 「五分で準備しろ――出動命令だ」  暗闇を縦列になって、カトウたちは進軍する。  自分の指先すら見分けられないほどの暗闇である。ロープを使ったり、あるいは自分の前を歩く仲間の肩やベルトをつかんで、滑ったり、こけたりしながらとにかく進んだ。 「急ぎだ。危険を承知で地雷原の傍を通る」  出発前、準備を終えた日系二世(ニセイ)兵たちを前に、ギルは言いわたした。 「吹っ飛びたくなけりゃ、どんな方向音痴も、今晩だけは絶対にはぐれるな」  雨は小雨だ。しかし、降りやむ気配がない。歩きはじめて一時間もすると、どの兵士も下着までぐっしょりになった。  そして夜明けを迎える頃、ドイツ軍に発見された。  朝食をとる(いとま)もなく、カトウたちは交戦状態に入った。  午前中、ミナモリ率いる小隊は、敵方の塹壕に据えられた機関銃座に足止めされ、ほとんど進むことができなかった。  はっぱをかけに来たギルは、事情を知って盛大に舌打ちした。 「……やむをえん。片づけに行くぞ」  ギルは、ガーランド銃を軽く上へ突きあげた。同行者を求める仕草に、ミナモリが真っ先に手をあげる。カトウがそれに続き、さらにばらばらと三、四人が命の保証のない突撃に志願した。ギルの目が、その中の一人に止まった。 「チビの方が、気づかれにくい――ついて来い、カトウ」 「イエス・サー」  音もなく動き出す上官のうしろに、カトウは続いた。  ギルの動きはまるで山猫のそれだ。迷路のような針葉樹林の中を、腰を低く落とし、藪から藪へ、木の幹から幹へ。姿を隠し、気配を消して、最短時間で目標に近づいていく。カトウはその後を必死で追った。そして、ほどなく機関銃座の死角に入り込んだ。  それ以上、近づけば見つかるという絶妙な距離でギルは足を止めた。直線距離で三十メートルほどといったところか。目を細め、ギルは素早く状況を確認した。  塹壕内に三人以上。外側の両翼に伏せた姿勢で二人。そして機関銃座とギルたちがひそむ場所の中間地点には、うまい具合に倒木があった。 「外側の二人さえ排除できれば、あとは俺がやる」  ギルがカトウの耳元でささやく。 「二人を二秒で殺れるか?」  カトウは二人のドイツ兵の位置を見た。その顔も。手前は三十過ぎのがっしりしたあごの持ち主。奥の方は対照的に面長で、青白い顔にはまだ幼さが残っている。おそらく、カトウと年がそう変わらない若者だ。  ガーランド銃さえあれば、三十メートルなどカトウにとってはゼロに等しい距離である。問題は連射だ。一度だけ、カトウは深呼吸する。  それから、ギルに向かって無言でうなずいた。 「よし。こっちはいつでもいいーーてめえのタイミングでやれ」  言われたカトウは木を遮へいにして、ガーランド銃をかまえた。  一瞬、間をおく。それから引き金を引いた。  一発目で若者の側頭部を、二発目でもう一人の後頭部を、カトウは正確に撃ち抜いた。  次の瞬間、ギルがばねの勢いで飛び出した。銃弾飛び交う空間を三秒で突っ切り、倒木の後ろにすべり込む。そのまま鋭いフォームで、手にした手りゅう弾を投じた。それは短い放物線を描き、まるで吸い込まれるように塹壕の中に消えた。  ドイツ語の叫び声が上がった直後、鋭い爆発音が響きわたった。 「……やった!」  カトウがそう思った瞬間、少し離れたところから同じような爆音と銃声が立て続けに上がった。  カトウの思考が凍りついた。そこは、ほんの五分前までカトウがいた所――ミナモリたちが、今も戦っているはずの場所だった。  

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