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第三章(⑥)

 「いたい、いたい!」という日本語の叫び声。タッタッタというドイツ兵のサブ・マシンガンの音。真新しい硝煙のにおいには、かすかに血の鉄臭さが混じっている。  その間を縫い、カトウはがむしゃらにガーランド銃を撃った。撃ちながら、気づくとただ一人の名前を叫んでいた。 「トオル、トオル!!」  銃撃は激しかったものの、ほんの数分で終わった。  奇襲をかけたドイツ兵たちは、最初の手りゅう弾の不意打ちで倒れた敵が思いのほか少ないと悟ると、傷ついた味方を引きずって速やかに撤退した。カトウもほかの日系兵も、深追いしなかった。  ドイツ兵が去ったあとも、混乱が続いた。血まみれの仲間の太ももを押さえ、必死で止血を試みる者。衛生兵を呼ぶ声。それらを縫って、カトウはミナモリの長身を求めた。  見つからない。  まさか……。  心臓が冷たい手で握りつぶされる。そんな恐怖にかられた時、 「アキラ!」  声が上がった方向に、カトウははじかれたように目を向けた。ミナモリの無事な姿をとらえた瞬間、普段、信じてもいない神に感謝したい気分になった。  ミナモリが駆け寄ってくる。自制のタガがゆるんだカトウは、手を伸ばし、愛しい青年の肩に自分の額を押し当てた。ほんの、二、三秒のことだ。それでもミナモリが驚いたことが、伝わってきた。  そして、思わぬ言葉を聞いた。 「アキラ。お前、肩から血が…!」  カトウは自分の身体を見下ろした。ミナモリの言う通りだった。上着の左側に血がにじんでいる。遅れてにぶい痛みを感じ出し、自分が怪我をしていることをようやく理解した。 「…平気だよ」  アドレナリンの影響か。本当に、たいして痛みを感じなかった。 「たぶん軽傷だ。トオルこそ、けがは?」 「俺は何ともない。機関銃座は?」 「つぶした」 「ギル大尉は?」  その質問に、カトウは目を白黒させた。  奇跡的に、機関銃座に新たなドイツ兵はまだ送り込まれていなかった。それから、もっと奇跡的なことに、倒木の影でジョー・S・ギル大尉がまだぴんぴん生きていた。 「……おい、こら。上官ほっぽりだして味方を助けに行くとは、見上げた根性じゃねえか」  ギルは縮こまるカトウをにらんだが、それ以上とがめはしなかった。正直、カトウを処罰する余裕すらない。  機関銃座は奪った。前進もした。しかし先刻の襲撃で、ミナモリの小隊は二十人にまで数を減らしていた。  さらに一日が経過する頃、ギルの中隊自体がついに百十名になった。  その夜、大隊長のS中佐はギルを含む中隊長たちを、大隊本部に召喚した。この大隊は中隊を四つ含んでおり、中隊長にはほかの部隊と同様、当初は大尉が任命されていた。しかし、カトウたちの部隊は連日の戦闘で中隊長の死傷も相次いだ。そのため、補填されないまま、大尉より階級の低い少尉や曹長が代理を務めているありさまだった。ヨーロッパ上陸以来、負傷もなくその地位に留まっているのは、今やギル一人になっていた。  やって来たギルは泥とホコリのこびりついた姿で、大隊長のS中佐につめよった。 「――昨日、言ったことの繰り返しだ」  斑模様に汚れた顔の中で、黒い眼が底光りする。 「一度、撤退すべきだ。これ以上進んでも、損害が増えるだけだ。俺の中隊は、二日前は百四十人いたんだぜ? それが今じゃあ、百十人だ。明日になれば、きっと百人を割っている。このままじゃ、俺たちは水につけられた泥人形みたいに、ここで消えちまうぞ」  ギルの必死の説得は、S中佐の疲れ切った吐息で報いられた。 「……司令官のD将軍閣下から、また野戦電話で命令が下された。今夜、我々の大隊から偵察隊を出せとのことだ」 「なっ……!」 「ドイツ軍に包囲され、今、我々が救出せんとしている大隊と、なんとしても連絡を取れとのことだ。連絡が取れたら、とにかくそこへ向かって前進しろと」 「…ふざけんな」  ギルのこめかみがぴくりと動く。三人の中隊長代理は顔を見合わせ、首をすくめた。  ジョー・S・ギル大尉の怒りは火山と同じだ。ひとたび噴火すれば、たとえアイゼンハワー総司令官でも鎮めることはできまい。 「ふざけんなよ、あのクソアホ将軍が!!! 戦功に焦って、進め、進めで、気づいたら虎の子の大隊ひとつ、ドイツ野郎に包囲されやがって。その尻拭いのために俺たちにクソな戦い方させるだけじゃ飽き足らず、同じ轍を踏ませようってわけか? 脳みそあんのか、ああ!?」 「口を慎め、ギル大尉」  中佐は力のない声で、形だけたしなめた。 「それ以上、言うなら。私は君を、指揮官から外さなくてはならなくなる」  ギルは嘲笑(あざわら)おうとして失敗した。こめかみが、ぴくぴく動く。出口をふさがれた怒りで、ふつふつと黒い目が煮えたぎっている。S中佐は、そこから目をそらさなかった。 「たとえ、誰かの落ち度であろうと。二百人以上の味方が、敵に囲まれて、救いを待っているんだ。それを、見捨てることはできない。そうだろう?」 「……ああ。確かに筋は通ってるよ」  聞いたギルの黒い瞳に、はじめて怒り以外の感情が宿った。 「――それで。そいつらを助けるために、日系二世兵(あいつら)は、あと何人死ねばいいんだ? 俺はあと何人、部下を犬死させりゃいいんだよ?」  その言葉に、答えられる者はいなかった。重苦しい沈黙の中、ギルは独り言のようにつぶやいた。 「あいつらは……自分たちがどんなクソな戦いをさせられているかも、知らずに戦っている。ふびんでならねえよ。クソみたいな戦いで、殺されて……あいつらは、三流チェス屋の駒じゃねえんだ。使い捨てにしていい駒じゃ、ねえんだよ」

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