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第三章(⑨)

 小雨が降り続いている。すでに十月下旬だ。夜ともなれば、気温はひと桁にまで落ちこむ。  冷たい雨の中を、ギルを先頭に一同は縦列になって森を進んだ。カトウはギルのすぐ後ろを歩き、そしてカトウの後ろにミナモリがいた。カトウは周囲を警戒しながらも、ミナモリの先ほどの言葉をずっと考えていた。 ――生きて故郷に、家族のもとに帰って欲しい。  ミナモリは時々、カトウに話してくれた。年がら年中、暑いか暖かいハワイのオアフ島のこと。そこで暮らす人々のこと。  そして、ミナモリ自身と家族のことを。  ハリー・トオル・ミナモリは志願して軍に入隊する前、ハワイ大学で医学を勉強していた。父親は貿易商で、一代で財を成した人物らしい。話の端々から、家が相応に裕福であることがカトウにも伝わってきた。父親は長男のトオルが家業を継ぐことを望んでいたが、本人にはまったくその気がなかった。何度かの話し合いの末、父は息子が医者の道を進むことを認めた。  教育熱心な母親は、家の中でかなり厳しく子どもたちをしつけた。特に子どもたちが「まっとうな」英語と日本語を話すことに、偏執的なまでにこだわった。その成果があってか、ミナモリの話す英語と日本語には、なまりがほとんどない。もっとも、ミナモリ本人は厳格すぎる母親に若干の苦手意識を持っているようだ。それでも家族として愛しているのは、間違いなかった。  さらに弟が二人いて、ひとりはカトウと同じ「アキラ」の日本名を持っているそうである。もうひとりは「シゲル」。両親とは別に、兄弟二人で出征中の兄に手紙を書いている。弟たちからのVメール(原物をマイクロフィルム撮影し、届いた先で印字して届ける戦中の郵便)を受け取ったミナモリは、なつかしそうに顔をほころばせていた。  絵に描いたような理想の家庭。故郷に戻れば、すばらしい未来がミナモリを待っている。  そこにカトウが入る余地など、一インチもない。  分かっているつもりだった。戦争が終わって、家族のもとに戻れば、ミナモリは数日の内にカトウのことなんて忘れてしまうだろう。たとえ、思い出すことがあったとしても。それは過去のほんの一コマとしてだ――それが当然だ。  ミナモリの未来を邪魔してはいけない。元より、カトウのような誇れるものなど何も持っていない男に、邪魔できるものでもない。  本当なら、会えるはずもなかった。肩を並べて歩くことだってなかった。これは偶然がもたらした出会いだ。カトウにできることがあるとすれば、せいぜい戦争が終わるまで、そばにいて負担にならないようにするくらいだ。  ……不意にギルが止まり、その場にしゃがみこんだ。  カトウはすぐさま、頭を切り替えた。しゃがんで耳をこらす。ヘルメットごしに、雨が針葉樹の葉を打つ音が伝わる。風が梢を揺らす音も。  それらに混じって、複数の足音が聞こえてきた。  カトウは暗闇に目をこらした。  それは、まるで鏡を見るような光景だった。木々の間を縦列になって進む兵士たち。しかし、カトウたちに比べると全体的に背が高く、体格もごつい。ドイツ側の夜間偵察兵だった。  まずいことに、彼らは徐々にカトウたちの方に近づいてきた。  ガーランド銃を握る手に、反射的に力がこもる。すぐにでも撃って、接近してくる脅威を排除したい誘惑にかられる。しかし、出発前にギルに厳命されていた。 「ドイツ野郎に、絶対に見つかるな。見つかった時点で、この任務は失敗だ」  縦列になったドイツ兵たちは、進行方向に敵が潜んでいるとも知らず、距離をつめて来る。そしてよりにもよって、先頭にいるギルの目と鼻の先を通過した。  すぐそばに潜む敵兵に、まったく気づいていない様子だった。  カトウは息を殺し、兵士を数えながら待った。一人、二人、三人……誰も気づかない。 ――うまく、やり過ごせる。  そう思った時、最後尾を固める大男が雨で濡れた石に足を滑らせた。転倒した男の口から、ドイツ語の悪態が上がる。男はぬかるみに手をつき、身体を起こそうとしてーー。  そして、暗闇にひそむギルと、まともに目が合った。  男が大きく口を開いたその刹那、ギルが目にも止まらぬ勢いでひじを叩きこんだ。鈍い音とともに、男の鼻骨が砕かれる。それでも彼はあきらめず、腰のルガーに手を伸ばした。  しかし、ギルの方が俊敏だった。凄まじい速さで右足を繰りだし、相手に足払いをかける。バランスを失った男が、ものの見事に転倒する。  獲物に食らいつく肉食獣の勢いで、ギルは倒れた男に飛びかかった。翻ったその手には、すでに愛用のナイフが握られている。  一瞬のためらいもなく、ギルは刃を男の首筋に叩きつけた。狙いあやまたず、ナイフは男の頸動脈を切り裂き、直後、勢いよく噴きあがった血しぶきが、ギルの半身を赤黒く染めた。  だが、男の手は最後までルガーを離さなかった。痙攣した筋肉が、引き金を引く。  地面に向かって発射された弾丸は、夜の静寂を粉々に打ち砕いた。  前方を進んでいたドイツ兵が、異変に気づいて鋭い誰何の声を上げた。ギルの無念の声が、命令の形をとって、そこに重なった。 「――撃て!!」  カトウは引き金を引いた。ミナモリも。そして他の兵士も。  ドイツ兵の間から悲鳴が上がった。弾がどれほど当たったかは分からない。すぐに彼らは撃ちかえしてきた。 「逃げろ!」ギルが叫んだ。 「味方の陣地に戻れ! 失敗だ。戻れ!!」

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