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第三章(⑩)
カトウは走った。後ろで銃声が上がる。すぐそばにある木の幹に銃弾が命中し、ぴしっ、ぴしっ、という音を立てた。無我夢中で駆ける内に、あろうことか前を走るミナモリの姿を見失った。振り返ると、後ろにいたはずのギルもいない。
一度、止まるべきか? ――迷ったその時、突然、足元の地面がなくなった。
「―――――!!!」
バランスを崩したカトウは、仰向けの状態で森の斜面を滑り落ちた。背中の下で、雨で湿気た枯れ枝や藪がつぶされ、けたたましい音を立てる。
――何とか止まらないと!!
カトウはぬかるんだ斜面の上で、必死で手足をふんばった。だが、すべり落ちる速度は一向に衰える気配がない。このままでは地面に叩きつけられてしまう。
その時、ガクッと右肩に強い負荷がかかり、滑落が止まった。
カトウはあえいだ。濡れて泥まみれになった軍服の下で、薄っぺらな胸が滑稽なほど上下している。肩の方の闇に眼をこらすと、ガーランド銃の銃身が、ちょうど灌木の枝と枝の間にひっかかっていた。みしみしと、今にも折れそうな音が聞こえてきた。
枝が真っ二つに折れる寸前、体勢を整えたカトウは手探りで斜面を上へ上へと登り出した。
戦場に出て、自分の死を考えたことがない兵士なんていないだろう。カトウも例外ではない。イタリア上陸以来、ドイツ軍の銃火に倒れ、二度と動かなくなった味方を、そして自分が撃ち殺したドイツ軍の兵士たちを、この目で見てきた。そのたびに、いつか自分も同じように誰かに撃ち殺される――そういう未来が、いやでも頭をよぎった。
カトウだって人並みに死ぬのは嫌だった。正確な数も分からないくらいに、たくさんのドイツ兵を撃ち殺してきたのだから、本当は殺されても文句は言えまい。それでも、いざ死体を前にすると、やっぱり死ぬのは嫌だと、どうしようもなく思ってしまう。
だが、戦いが続く限り、今日も誰かが死ぬ。
そしていずれ、自分にその順番が回ってくる。
…いつの頃からか、カトウは死ぬならどんな死に方がまだマシか、考えるようになった。絶対に、楽な方がいいに決まっている。それこそ、痛みなんか感じないくらいに、あっけないのがいい。腹や胸、顔に銃弾をくらって、何時間ものたうちまわった挙句に死ぬなんて最悪だ。
今の今まで、そう考えていた。
斜面を登りきったカトウは、周囲を見わたした。針葉樹の葉先から、雨垂れが落ちる音以外、何も聞こえてこない。どちらを向いても真っ暗で、自分が逃げてきた方向も、味方の陣地も、皆目見当がつかなかった。
とにかく、斜面から離れよう。そう思ったカトウは歩きかけて、すぐに急停止した。かすかであるが、雨音に混じって話し声が聞こえてきた。ドイツ語だということと、少なくとも二人以上のものだということだけは、分かった。
立ったまま、カトウは凍りつく。自分は今、一人だ。それなのにすぐ近くに自分を殺そうと、ライフル銃を片手にした敵がうろついている。
これまで感じたことのない種類の恐怖が、腹の底からせりあがってきた。話し声はしばらくすると遠ざかり、ほどなく聞こえなくなった。
それでも、カトウは動けなかった。どうしようもなく、身体がすくんで動けなくなった。
――いやだ。こんな死に方はいやだ。一人で敵に囲まれて、誰にも知られず死ぬのはいやだ。
暗い森の中で、脳漿をぶちまけて横たわる自分の姿が頭に浮かぶ。死体をいやほど見てきたから、死んだ後のことまで容易に想像できてしまう。まず皮膚が変色する。それから腐敗が始まり、野性動物が死臭に引き寄せられて、死体に群がりはじめる。カラスが目玉をえぐり、山犬が腐って柔らかくなった肉を食いちぎり、腕や足はもがれて持ち去られる。やがて春になる頃には、ぼろぼろの軍服と錆びたガーランド銃と、ほんのわずかな骨をのぞいて、ジョージ・アキラ・カトウという男が存在した痕跡はあらかた消え失せている……。
その声を聞いた時、恐怖がもたらした幻聴かとカトウは思った。
「アキラ」
カトウははじかれたように、周囲を見わたした。そこにもう一度、
「アキラ」
低く、ささやく声がした。
「……トオル?」
カトウがつぶやく。たちまち、返事がかえってきた。
「アキラ、どこだ?」
「! ここだ!」
下生えを踏む音が上がる。直後、ひょろ長い身体を低くしたミナモリが藪から姿を現した。顔の輪郭も分からぬほど暗いのに、カトウはミナモリが笑うのがはっきり分かった。
「よかった! 無事か?」
「……どうして?」
ミナモリはカトウの前を走っていた。とっくに、味方の陣地に引き返したとばかりに思っていたのに。
「後ろを見たら、お前がいなかったから」
「………」
「めちゃくちゃ心配したぞ」
きっと、カトウは怒るべきなのだ。
危険な真似をするなと。自分の心配だけしろと。でも何も言えなかった。言いたいことが、頭の中であふれかえっているのに、どれひとつまともな言葉にならなかった。
ミナモリはカトウの肩をいたわるようにたたき、蛍光塗料の塗られた磁石を示した。
「とにかく、戻ろう。な?」
カトウはうなずいた。たくさんの感謝と愛情を胸にしまい、うながされるままにミナモリのあとに続く。
その途端、ドイツ語のささやきが風に乗って二人の耳に届いた。
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