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第三章(⑪)

 ミナモリの行動はすばやかった。カトウの腕をつかむや、小柄なその身体を抱きすくめるようにして木の根元にしゃがみこみ、口を自分の左手でふさいだ。  カトウは耳をすました。二人……いや三人? ささやかれるドイツ語自体は分からない。だが、語調から言っていることは、何となく見当がついた。一人が「人の声がした」と言い、残りが疑いながらも、慎重に声がしたところを調べようとしている。  パキ、パキ、パキ。    下生えと枯れ枝を踏む音が、小雨をぬって徐々に近づいてくる。カトウはガーランド銃を、ゆっくり肩から外す。その手に、ミナモリの右手が重なった。 <――撃つな>  カトウは動きを止めた。撃ちたくて仕方がない。しかし、うかつに引き金を引けば、敵に自分たちの位置を知らせることになる。ミナモリが考えるように、やり過ごした方が得策だ。  カトウはそっと、ミナモリの手を握り返した。大丈夫だと、指先で伝える。だが……。  パキ、パキ、パキ。  音はやまない。それどころか、明らかにこちらに近づいてくる。  ミナモリの手がかすかに震えていることに、カトウは気づいた。 ――俺は生きて、戦場(ここ)から帰りたいーー。 ーーそうだ。トオルだって怖いんだ。  カトウと同じで、死ぬのが嫌で怖くてたまらない。それなのに、敵兵がうろつく暗闇の中を這って、カトウを探しに戻って来てくれた。  カトウはミナモリの左手からそっと手を離した。やめろと、ミナモリが身体で伝えてくる。だが、今度は従わなかった。  カートリッジ・ベルトに手をのばし、カトウは中のクリップを握りしめた。 ーー生きて帰らせる。せめてトオルだけは。家族のもとに、生きて帰さなければ。  パキ、パキ、パキ。  ドイツ兵たちの足音はついに、二人の隠れる木のすぐ後ろまで来た。カトウの指がガーランド銃の引き金にかかる。ーーやるしかない。  だが奇襲をかけようとした、まさにその寸前、遠くの方から立て続けに銃声が上がった。  ドイツ兵たちの注意が一瞬で、そちらに向けられるのが分かった。カトウたちが隠れる樹木の背後で、短いが緊迫したやり取りが交わされる。その直後、近づいてきた時と打って変わった騒々しさで彼らは走り去っていった。  ドイツ兵たちの気配が完全になくなった後も、二人はしばらく動けなかった。  たっぷり一分が過ぎて、ようやくミナモリはカトウの口から手を離した。それから無事を確かめるように、カトウの背中に腕を回し、何も言わず強く抱きしめた。荒い息が、カトウの耳にかかる。カトウもミナモリの身体をしっかり抱きすくめた。  ミナモリののどから洩れるあえぎが、カトウの最後の自制心を吹き飛ばした。  ミナモリの頬を両手ではさむや、その唇にカトウは強引に自分の唇を重ねた。  暗闇の中で、ミナモリが目を見開くのが分かった。それでも、やめることはできなかった。  満足なんてない。味わう余裕などない。ぐちゃぐちゃになった感情を、カトウはミナモリにただただ、ぶつけた。 ――生きている。恐い。怖い。好きだ。好きだ、愛している、トオル……。  ……唇を離した後、カトウに残ったのは恐ろしさだけだった。  このあとに待ち受けている、おしまいへの。 「ごめん。トオル」そんな情けないことしか、言えなかった。 「ごめん。本当に、ごめん……」  ミナモリは、何も言わなかった。どんな表情を浮かべているか、視界がにじんでカトウにはよく分からない。カトウがしゃくりあげた音で、ミナモリはようやく我に返って口を開いた。 「昨日のことがあってから。何となく、そうじゃないかって勝手に思ってたんだけど……」  それから、困ったようにまくしたてた。 「頼むから、泣くなよ。怒ってるわけじゃないんだ。ただ、何となく気づいていたけど、さっきのは、さすがにびっくりしただけで……いや、びっくりしたってのは、ちょっと表現として正確じゃなくて……ああ、くそ!」  普段の礼儀正しさはどこへ行ってしまったのか。ミナモリは、彼らしくない悪態をついた。  カトウは困惑した。なぜミナモリが、こんな反応をするのか、ちっとも理解できなかった。  背の高いノッポの青年は、はあっと息を吐き出し、カトウを見下ろす。頭の上からつま先まで。ジョージ・アキラ・カトウという彼の戦友が、どんな姿をしているか確認するように。  それから数日前にしたように、やにわ相手の額に自分の額を押し当てた。  カトウはぎょっと目を見開く。それと対照的にミナモリは目を閉じる。そのまま数秒ーー。 「……いいよ」  かすれた声で、それでもはっきりとミナモリは言った。 「相手がお前なら。俺はいい」 「……………え?」 「むしろ……変だな。何でだろう、すごくわくわくするんだ」  ミナモリがのどを鳴らして笑う。  そして、そのままカトウにキスをした。  二人とも、雨にぬれて、泥まみれで、汚れて、けっこうひどい臭いがしていた。  でも、そんなものは全く気にならなかった。   ――トオルがキスしてくれている。  カトウの頭は、やっとのことでその事実を受け入れた。  そのあと、夢中でむさぼった。  吸って、舌を入れ、応えたミナモリの舌にカトウは自分の舌をからめた。  ミナモリに知って欲しかった。  どれほど長く、気持ちを抑え込んできたか。  どれほど激しく、恋焦がれてきたか。  どれほど深く、愛しているか。  全部、知って欲しかった。全部知って、同じくらいに激しく、深く愛して欲しかった。  ……どれくらい時間が経過したか。  背中を何度か叩かれ、ようやくカトウは我に返った。  少し呆れた、それでも優しい声で、ミナモリはささやいた。 「――そろそろ、戻ろう」

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