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第三章(⑫)

 方位磁石で時々、方向を確かめながらミナモリは暗い森を進んでいく。方向感覚は優れている方だ。そして左手で、カトウの右手をしっかり握ってくれていた。 「右側が、斜面になっている。気をつけろ」 「うん」カトウはうなずく。先ほどのことが、まだ信じられないまま、とにかく歩いた。  実感が中々わいてこない。だけど、一つ確かなことがあった。  おしまいだと思っていた先に、まだ道が続いていた。  想像や夢でしかなかったことを、考えてもいいのだ。  ミナモリとの関係を。望んでいた、新しい結びつきをーーそう思うと、こんな状況なのに顔がゆるんできた。    だが、まがりなりにも戦場で鍛えられたカトウの目は、闇に一瞬だけ灯った光を見逃さなかった。ミナモリの手を引っ張り、停止するよう合図する。ミナモリは即座に従った。  風に乗って、またしてもドイツ兵たちのざわめきが聞こえてきた。  幸いにして、距離はまだ離れていた。もっとも、今回の人数は数人では済まなかった。少なくとも十人はいる。まともにやり合って、勝てる見込みはまずない。しばらく様子を見て、そっと後退する以外になさそうだった。  カトウは木の幹にはりついて、相手の動向をうかがった。先ほどの光はおそらくフラッシュライトのものだ。見つめる先で、それがまた瞬いた。その時、彼らのそばに奇妙な形の小型戦車らしいものが停まっているのが、一瞬だが見えた。  そのハッチから、何やら筒型のものが突きだしている。一見、兵士が扱うランチャーに似ている。しかし、それにしては明らかに筒が太すぎた。 「見たか、トオル?」 「ああ」 「何だろ、あれ?」  カトウが首をかしげる。ミナモリも。だがすぐに浅黒い端正な顔から、さっと血がひいた。 「――逃げるぞ!」 「え?」 「ドイツ軍の暗視装置(ノクトビジョン)だ!こっちの姿が、丸見えになってる……」  その瞬間、カトウのすぐそばでピシッという音が上がった。  それに続いて、銃弾が何発も周りではじけた。  ミナモリがカトウの手を引き、駆け出した。後ろからドイツ語の叫びが上がる。 「ツヴァイ・ソルダテン!」  カトウにも、その叫びの意味が分かった。兵士は二人。こちらの数まで、把握されている。  ガーランド銃をかまえかけるカトウを、ミナモリが鋭い声で制した。 「走るのに集中しろ!!」  カトウは歯を食いしばって、こらえた。ミナモリの言う通りだ。とにかく、この場を切り抜けるのが先決だ。手を引かれるまま、カトウはとにかく駆けた。  機械で作られた夜行鳥(フクロウ)の目が届かない場所へ―――。  不意にカンという乾いた音が、カトウの耳の鼓膜に響いた。  その途端、ミナモリの長身がぐらりと傾いた。その手から力が抜け、からめていた指がほどけかける。カトウは反射的に、戦友の手をつかんだ。  だがミナモリが傾いた方には、森の斜面がぽっかり口を開けている。均衡を失った長身を引き戻すには、カトウはあまりに力不足だった。  二人はひとかたまりになって、濡れた斜面を転がり落ちた。灌木や岩にぶつかり、身体がボールのように跳ねる。何度目かの衝撃で、カトウの胸に鋭い痛みが走った。昨日、左胸に負った傷が開いたのだと、ぼんやり理解する。  それでも、カトウは意識を失う最後の瞬間まで、ミナモリの手を離さなかった。 ーーーーーーーーーーー  ……周りが騒々しい。誰かが、左胸を強く押してくる。  何度も、何度も。そのたびに、開いた傷に痛みが走った。 ーー痛い。だから、痛いって……。  大きくせきこんで、カトウは息を吹き返した。 「――生きてたか」  最初に見えたのは、ジョー・S・ギル大尉の顔だった。そのそばに、見覚えのある軍医の顔。彼は血で濡れた手を、カトウの胸から離した。開いた傷口の上から、どうやら蘇生マッサージを施してくれていたようだった。  カトウは、地面に横たえられていた。身体中がズキズキする。頭もまだ、はっきりしない。それでも、すぐそばで同じように横たわる青年の存在に、すぐに気づいた。  カトウは跳ね起きた。押しとどめようとするギルと軍医の手をはらいのけ、ミナモリのそばに這うように進む。  目を閉じたミナモリの顔は、すこぶる穏やかだった。ケガをしている様子もない。  カトウはほっと息を吐いた。 ――よかった。気を失っているだけのようだ。  カトウはそっとミナモリの手に触れた。その手は、氷のように冷たくなっていた。 「……ギル大尉。毛布、持って来ていただけますか?」  振り向いたカトウを、ギルが穴のあくような目で見返してきた。 「……何だって?」 「お願いします。このままじゃ、トオルが風邪をひく」  その瞬間、ギルが見せた表情は、カトウにとって忘れられぬものになった。  あのジョー・S・ギルがーーまるで泣きだす寸前の幼児のように、顔をゆがめたのだ。 「クソが……クソ! そいつをよく見ろ、カトウ」  カトウは見た。分からなかった。 「大尉?」 「死んでんだよ!」  震える声で、ギルは叫んだ。 「ミナモリは死んだ。ドイツ野郎のクソ弾が頭に当たって、死んじまったんだ!!!」  カトウは、ゆっくりミナモリの方を振り返った。  穏やかで、眠っているようにしか見えない。  だが、その側頭部はつぶれて、乾いた血がこびりついていた。  死んでいる? トオルが? そんなはずない。 (死んでいる)だって、さっきまで一緒だった。(死んでいる)キスをした。俺にキスしてくれた。(死んでいる)(死んでいる)こんな俺を……(死んでいる)(死んでいる)受け入れて……(死んでいる)(死んでいる)(死んでいる) 「…………(いや)……」  これからだろ? 俺たち、これから……(死んでいる)(死んでいる)(死―――) 「嫌………嫌、いや。いやーーーーー!!!!」

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