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第三章(⑬)

 泣き叫ぶ自分自身の声で、カトウは目を覚ました。  跳ね起きて、過呼吸気味に息を吸う。それが治まった頃、ようやく今いる場所がフランス国境の森ではなく、東京の荻窪にある宿舎のベッドだという現実がしみこんできた。  カトウは立ち上がり、よろめくように廊下に出た。そこはしんと静まり返っていた。当然だ。壁にかかった古時計の針は、今が午前三時二十分だと告げていた。  電球がひとつ、ぽつんと下がった共同の水場で、カトウはコップに水をつぎ、一気に飲み干した。それから顔を洗う。鏡を見ると、そこに生気のない幽霊のような男が虚ろな目で見返してきた。   あの頃のことを夢に見るのは初めてではない。何度も、それこそ色々な場面を見てきた。  おしゃべりをした仲間が、直後に射殺される瞬間。  自分が撃ち殺したドイツ兵たちの、(うつ)ろでうらめしげな顔。  逆に顔のないドイツ兵たちに、夜の森を追い回され、殺される寸前になって、汗まみれで起きたこともあった。  ミナモリの夢も時々見る。だが、こんなに鮮明な夢は、めったになかった。  指先で唇に触れると、そこにはまだ夢の中で感じたミナモリの体温が生々しく残っていた。  三度だけ、カトウはミナモリとキスを交わした。二度は、あの夜の森で。  そして、最後の一度は――ミナモリが死んで、三日が経過したあとに。  夜間偵察が失敗に終わり、ミナモリの説得も行われないまま、カトウたちは最終的にドイツ軍に包囲された第百四十一連隊第一大隊の救出に成功した。  しかし、それは八百人以上の日系二世(ニセイ)兵の死傷という、重すぎる犠牲と引き換えだった。  味方の死体を、死体袋につめる作業ほど陰鬱(いんうつ)なものはない。  戦闘が短い小康状態になった時、カトウは小隊の仲間に手伝ってもらい、ミナモリの亡骸をキャンバス地の袋に入れた。彼らが去った後も、カトウはしばらくそこにいた。  あるいは最後の別れの時を、二人きりにしてくれたのかもしれない。  周りに人目があったが、カトウは気にならなかった。  その時、カトウの世界にいたのは、カトウともう一人だけだった。  カトウはウェーブのかかったミナモリの髪をなで、頬に触れ、その上に覆いかぶさった。  物言わぬ相手との口づけは、どこまでも甘かった――甘い腐臭がし、重ねた唇から、カトウは自分の魂が、ミナモリの中に流れて消えていくように感じた。 ……戦地を進む兵士たちに、知れわたっている迷信がある。   だだっぴろい戦場を飛び交う無数の銃弾のいくつかには、目に見えない文字で名前が刻んである。自分の名前が刻まれた銃弾が、そいつの生命を奪うのだと――。  ジョージ・アキラ・カトウと刻まれた銃弾を求めて。  カトウは、ミナモリが隣から消えた日々を戦い続けた。二人の一人は、もういない。残った「チビ助(ショーティ)」は、時々タコツボで一人で泣いた。  そして、二度と笑わなくなった。  戦争、はまだしばらく続いた。ギルが危険な任務の志願者を募る時、カトウは常に手を上げた。ギルは何とも言えぬ表情で、そのたびにカトウをにらんだ。  にもかかわらず、いつだってカトウを選ぶのだ。「チビ助(ショーティ)」があらゆる面から見て、仕事をやり遂げる可能性が一番、高かったから。  ミナモリのいない日々をそうやって過ごす内に、カトウは生きることも死ぬことも、どうでもよくなった。  歩いて、撃って、殺して、眠って。  また一日が始まり、歩いて、撃って、殺すーーその繰り返し。  そして終わりが来るのを、今日か今日かと待ち続けた。  ……カトウは廊下から部屋にもどり、湿気(しけ)た自分のベッドに横たわった。  そのまま一睡もできず、夜明けを迎えた。

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