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第四章(②)

 カトウが視線をさまよわせた先では、直近の上司であるニイガタ少尉とその妻のドロシーが、ちょうどクリアウォーターと談笑しているところだった。ホスト役のクリアウォーターは長くおしゃべりをする余裕はないようで、話をひとしきりするとキッチンの方に引っ込み、お手伝いとこの日臨時に雇ったコックの様子を見に行っていた。  カトウにとっては幸いというべき状況だった。巣鴨プリズンに行った帰り道、クリアウォーターと気まずい状況になったことが、ずっと尾を引いていたからだ。料理ののったテーブルに目をもどすと、ドロシーのグラスが空になっている。すると、そばにいたニイガタが、すかさず新しいものと交換した。見ていたカトウは「へえ」と思った。かいがいしく妻に尽くすニイガタの姿は、普段仕事場で見せるいかめしい態度からはにわかに想像しがたいものであった。 愛妻家か、あるいは恐妻家かーー夫からのグラスをミセス・ニイガタは目礼して受け取った。  ドロシー・ニイガタは結婚した女性としては珍しく、いまだにフルタイムで仕事をしている。勤め先は都内の赤十字病院で、彼女はそこで看護婦として働いていた。夫のケンゾウ・ニイガタとは戦争中に日系人の強制収容所で知り合い、彼が太平洋戦線に旅立つ直前、結婚式を挙げたという。  カトウはふと、看護婦のドロシーに不眠を相談するのはどうかと考えた。 ーー迷惑だろうか? でも少しくらいなら、耳を傾けて何か助言をくれるかもしれない。    そう期待して、椅子から立ち上がりかけた時ーー 「のう、楽しんどるか?」  間の悪いことに、ササキがほろ酔い加減でやってきた。 「………ああ」 「なんじゃ、機嫌悪そうじゃな。なんか、悩み事か?」  カトウはため息をついた。仕方がない。ニイガタ少尉の奥さんには、またあとで話しかけよう。  ササキはカトウの気も知らず、手にしたビールの入ったグラスをくいっとあおった。 「てか、お前、何や顔色があれじゃのう。どっか、具合悪いんか?」 「別に。夜、少し寝つきが悪いだけだ」 「なんじゃ。そんなん、晩酌に一杯やれば、ぐっすりやって」 「だから俺は下戸だって、何回も言ってるだろう」  ササキはいまだに、一緒に食事に行くとカトウに酒をすすめてくる。そのしつこさに、いい加減、カトウはうんざりしていた。 「あー。二人そろってる」  背後から上がった調子はずれな声に、カトウとササキは同時に振り返った。トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ伍長が、例によって半分崩れた顔をにこにこさせて立っていた。  手には愛用のスケッチブックと鉛筆が握られている。 「ねえねえ、絵のモデルになってくれない?」 「ええで。今日くらいなら」  ササキはビールのグラスをかかげて、鷹揚に言った。U機関に来た当初はフェルミを避けていたが、日数が経つにつれて、その奇矯(ききょう)な振る舞いにも慣れてきたらしい。  カトウはどうしようか迷ったが、子どものように期待するフェルミのまなざしに負けて、結局その場にとどまった。  フェルミは庭の芝生の上にあぐらをかくと、さっそく鉛筆を動かし始めた。 「そうだ、マックス・カジロー・ササキ。ジョージ・アキラ・カトウ。君たち、彼女いる?」  スケッチブックから顔を上げずに、フェルミは二人の日系二世(ニセイ)に尋ねた。 「なんで、そないなこと聞くん?」とササキが聞き返すと、 「日系人か、日本人の彼女がいたら、連れて来て欲しいんだ。女の人の絵の練習にちょうどいいから」 「そんなら今、ニイガタ少尉の奥さん来とるから、ええチャンスじゃろ?」 「うー……できたら、もっとかわいい感じの女の人がいいんだ」  失礼極まりない言い草だった。  だが、ニイガタ女史はたしかに「かわいい感じ」ではない。女性としては平均的身長だが、眉は太く、あごが張っていて、どちらかといえばいかつい印象が強い。  夫婦は似ると言うが、猪突猛進型の夫と雰囲気までよく似ていた。  フェルミの言葉に、ササキは残念そうに首を振った。 「あいにくじゃのう。ミィは、彼女まだおらんわ」 「そっか。ジョージ・アキラ・カトウは?」 「俺もいない」 「好きな人は?」  フェルミが顔を上げ、カトウに視線を向ける。カトウは一瞬、返答につまった。 「……いないよ」 「そう?」フェルミは物問いたげに、小首をかしげた。 「お前こそ、おらんのか。フェルミー?」  ササキが言った途端、フェルミの顔の右半面が、むっとした表情を浮かべた。 「ちょっと! ぼくの名前は、トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミだよ。フェルミだけじゃ、どのフェルミか、分かんないじゃない」  自他を問わず、名前をフルネームで呼ばないと気が済まないし、他人がそうしないと怒りだす。U機関の人間が憶えておくべき、フェルミ伍長の奇癖のひとつだった。 「お、おう。すまんのう。トノ……トノトノ・ジュゲム……?」 「トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ!」 「おう、すまん、すまん――てか、お前こそ、誰か好きな奴おらんのか?」 「いたよー、いっぱい。でも全部ふられちゃった」  フェルミは鉛筆の先で、自分の顔を示した。戦傷で醜く崩れた半面の方を。 「ほら。この顔だから」  フェルミは淡々と言ったが、ササキは十分にショックを受けたようだった。 「……ほんまにすまん。ミィ、悪いこと聞いたわ」 「別にいいよ」 「えっと……でもお前、前にクリアウォーター少佐と抱きおうとったこと、なかったか?」 「あれ? 見られてた」  フェルミはくすくす笑い、カトウの方にわざわざ顔を向け、「にへっ」と表情を崩した。  フェルミの行動がちょくちょく奇天烈なのは、もう分かっている。いちいち、気にしたり、とがめるだけ徒労だ。  それにもかかわらず、カトウは胸が一瞬、おかしな具合にざわついた。   ーー……何だよ、そのへらへら顔は。  妙に白けた気分になり、カトウは席を立ちかける。  だが腰を浮かす直前、ガアンという音が庭中に響きわたった。カトウは、一瞬で音の正体を正確に把握した。  それはアメリカ陸軍の制式拳銃、四十五口径のM1911が発射された音だった。

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