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第四章(⑥)

  「無慈悲さはヨーロッパにおいて、ナチス・ドイツがユダヤ人やスラブ系住民に行った蛮行の数々だ。そして己の倨傲(きょごう)に手ひどい教訓を叩きこまれたのは、ほかならぬ我々アメリカ人だ」  クリアウォーターは、小図書室の壁に飾られた世界地図に目を向ける。一九世紀末に作成された古地図は、元々は父親の所持品だったものだ。その右半分、コバルト・ブルーに塗られた太平洋の真ん中に、小さな群島が浮かんでいる。  ハワイ諸島――アメリカの統治下に置かれ、ハワイ準州となった群島。そこには一九四一年当時、約十五万八千人もの日系人たちが暮らしていた。  そして一九四一年十二月七日(日本の暦では十二月八日)。日本軍はハワイ諸島オアフ島の真珠湾に存在したアメリカ海軍基地と停泊中の艦隊に対し、航空機による奇襲攻撃を行った。  いわゆる「真珠湾攻撃」である。翌日、アメリカは日本に対して宣戦布告。両国は開戦へと至る。マックス・カジロ―・ササキ軍曹の故郷であるハワイ諸島は、アメリカが日本を占領するに至る、長い道のりがはじまった場所であった。 「……一九四一年以前、我が国の海軍研究所は、日本の航空戦力が空軍を擁する主要国中、最低レベルの水準にあると断言していた。その根本にあったのは科学的な根拠でも、緻密なデータに基づく分析でもない。体格が小柄な日本人に、戦闘機の操縦なんて、できっこないという思い込み――蔑視(べっし)だ。要するに、なめていたんだ。その結果が――真珠湾での航空機爆撃による日本海軍の勝利と、その直後から南洋と仏領インドシナで開始された日本軍の電撃的な侵略だった」   真珠湾を忘れるな(リメンバー・パールハーバー)――それは真珠湾攻撃以降、日本と戦うアメリカ人たちが敗北を忘れず、奮起するための合言葉となった。  しかし、この言葉は同時に、差別意識がもたらした慢心と、それによって引き起こされた苦い結末を忘れないために、自戒を込めて記憶されるべきだとクリアウォーターは思う。 「真珠湾攻撃が我々の目を覚ました。それからだ。日本という敵を徹底的に研究し出したのは――同時に、陸軍の情報語学校、海軍の語学校、さらに各地の大学で、日本語のできる人材を育成し、史上、類を見ない質量を誇る情報収集ネットワークを作り上げた――全力を尽くして戦い、そして初めて勝利を得ることができたんだ。もしもこの過程を忘れ、再び慢心したならば、その時、我々は真珠湾以上の教訓を叩きこまれるやもしれん」  ヤコブソンの顔つきはすっかり変わっていた。フェルミと同じく、彼もまた人にはない才能を持って生まれてきた若者だ。  しかし、それ以外の面ではいたって普通の青年である。  若く、それだけにまだすれていないし、頭も柔軟だった。 「ヤコブソン軍曹。たとえ肌の色や髪の色が異なるとしても、日系二世(ニセイ)は私や君と同じ人間だ。誇りを傷つけられ、手ひどい扱いを受ければ、怒るということを忘れるな。それを忘れた時、代償を支払うのは君自身になる」 「――はい」  ヤコブソンは神妙な面持ちで答えた。それを聞いたクリアウォーターの顔に、この部屋に入って、はじめて微笑が浮かんだ。 「よろしい。それでは、そろそろ皆のところに戻ろう」  クリアウォーターは、ようやく肩の荷をおろした。 ーーこれで楽しくパーティを続けられる。  だが、楽観するのは少々、早すぎたようだった。  小図書室から廊下に出た途端、庭の方が騒々しくなっていることにクリアウォーターは気づいた。ポーチに出た赤毛の少佐の目に飛び込んできたのは、慌てた様子で歩き回る部下たちの姿だった。その中心に、ジョージ・アキラ・カトウが座り込んでいた。というより、へたりこんだ状態で、アイダとササキに背中を支えられている。カトウの色白の顔は不自然に上気し、目は焦点が合っていなかった。  ニイガタの怒鳴り声で、クリアウォーターはすみやかに状況を理解した。 「一体誰だ!? カトウのコップにアルコールを入れた奴は!!」

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