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第四章(⑦)

 「意識はちゃんとあるし、呼吸も問題なし――少しずつ水を飲ませて、その合間に横に寝かせて、夜まで付き添ってあげてください」  現役の看護婦であるドロシー・ニイガタの言葉に、クリアウォーターは胸をなでおろした。 「助かりました。ミセス・ニイガタ」 「どういたしまして。万一、つねっても起きなくなったら、その時はすぐに病院へお願いします――それでは、私はこれで」  ドロシーはきびきびと立ち上がり、バッグを手にする。それから玄関先で待っていた夫に連れられ――というより、二人の立ち振る舞いからは、ドロシーの方がまるでケンゾウ・ニイガタ少尉の上官に見えなくもないが――、クリアウォーター邸を後にした。  すでに、あたりはすっかり夕闇に包まれていた。  結局、ガーデン・パーティはカトウが人事不省に陥ったため、そのまま、なし崩しに解散という流れになった。サンダースを初めとする部下たちは、すでに少し前に辞去している。  ニイガタ夫妻を見送ったクリアウォーターが玄関からキッチンにもどると、住み込みのお手伝いである西村邦子(にしむらくにこ)が、水の入った水差しとコップを漆塗りのお盆にのせているところだった。  邦子はクリアウォーターの姿に気づいて、口元に笑みを浮かべた。 「散々なパーティになってしまいましたね。特に小図書室でお休み中のお客さまには」 「まったくだ」  クリアウォーターがため息をつく。その前に、ひょいとお盆が差し出された。 「わたくし、後片付けで忙しいので。お客さまの介抱は、手の空いている方にお願いします」  ぬけぬけと言うお手伝いの娘に、クリアウォーターは苦笑を浮かべて、お盆を受け取った。  小図書室のドアを開けると、ソファに寝そべる男がとろんとした目をクリアウォーターに向けた。赤く染まった頬と弛緩(しかん)した表情のせいで、カトウは普段以上に幼く見えた。 「あれぇ……少佐?」 「大丈夫か、カトウ。ずい分と酔いが回っているようだが……」 「えー。酔ってませんよ」  ソファから身体をよいしょと起こし、カトウは主張した。 「オレンジジュースで、酔うわけないじゃないですか!」 「いや、君が飲んだのはニッカー軍曹秘蔵のウィスキーで作ったニューヨーク(カクテルの一種)なんだが……」  しかも目撃者(フェルミ伍長)の言によれば、コップ半杯を一気飲みしたらしい。 「ジュースですって!!」カトウはなおも食いさがった。 「だって、ちょっと変わった味だけどおいしいって、ササキが言ってましたもん!」 ーー……犯人はあいつか。  クリアウォーターは呆れた顔で、お盆をサイドテーブルに置いた。 「もう、とにかく水を飲みなさい」  カトウの横に腰を下ろし、クリアウォーターは水を入れたコップを差し出した。だが、途中で思い直す。この調子だと、手渡しても落とすかこぼしそうだ。  クリアウォーターはカトウの肩に手を回して身体を支え、コップを口元に近づけた。  カトウはむすっとした顔つきのまま、それでもおとなしく水を飲みほした。 「ぷはあ……」 「満足かい?」 「……もう一杯」  カトウはのろのろと、サイドボードの水差しに手を伸ばす。しかし、指が届く寸前で身体のバランスを崩した。そのまま、あろうことかクリアウォーターの腕の中に倒れ込んだ。  思わぬ事態に、とっさに反応できないクリアウォーターを、まつげにふちどられた黒い瞳が見上げる。 「暖かいですね、少佐……」    クリアウォーターは、自分の心臓が早鐘のように打ち出すのを感じた。  こんなに間近でカトウの顔を眺めるのは、巣鴨プリズンに行って以来だった。  あの日の滑稽な一幕の後、カトウは同性愛者の上官(クリアウォーター)を露骨に避けるようになった。たまたま廊下ですれちがったり、給湯室でばったり会った時も、敬礼はするが、すぐにそそくさと姿を消す。  嫌われたな、とクリアウォーターは傷ついた心で思った。  だから、もしかしたら今日のガーデン・パーティならと密かに期待していた。別に過度の望みを持っていたわけではない。ただ以前のように、気軽に話をできるくらいに関係が修復できれば、と思っていただけ。  それが自分への言い訳に過ぎなかったことに、クリアウォーターは今さら気づいた。

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