51 / 264
第四章(⑧)
ーー どうして、カトウをここに入れる気になったんです?
ーー んー、顔が好みだった。
以前、副官のサンダースに言ったことは、うそではない。
初めて本人に会った時から、クリアウォーターはカトウの顔立ちを好ましいと感じていた。
カトウは日頃、陰鬱 な表情が多い上、決して表情豊かな人間とは言い難い。そのせいで気づかれにくいが、実のところ繊細で整った顔をしている。柳の葉のように柔らかな髪。弓の弧を描く眉。いつもどこか憂いを帯びた切れ長の黒い瞳。引き締まった口元。鼻は低いが、鼻筋は通っている。その各パーツが、細面のすっきりした輪郭の顔に、絶妙なバランスで配置されている。
例えるなら、白一色の磁器。
派手ではないが、見る人間が見ればその良さと深みが分かる、そんなタイプ。ただ身体つきに関して言えば、小柄で少々、細身すぎるきらいがあるが。
もっともそんな欠点さえ、今のクリアウォーターにはささいなことに思えた。
多分、決定的だったのは、巣鴨プリズンからの帰り道だ。
きれいな男だと思っていたが、まだその程度のことで、執着を持つには至っていなかった。むしろ生気の乏しさや反応の薄さが、本来の魅力を減じて、クリアウォーターから興味を持たせるきっかけを奪っていたと言っていい。自分の意志を示さない人形のような男はーーあるいは、幽霊のような男は、クリアウォーターの好むところではない。
――あの瞬間までは。
クリアウォーターの脳に刻まれた鮮やかな記憶ーーカトウが同性愛者だと見破って、そのことを指摘した時。
それまで血色に乏しかったカトウの顔に、さっと赤味がさした。
その瞬間、それまで半ば幽霊のようだった男が、生身の青年に姿を変えた。
生気を得たカトウの顔はびっくりするほど魅力的でーークリアウォーターは、ただただ目を奪われた。
クリアウォーターは、今まで少なからぬ相手と様々な形の愛をつむいできた。
だが、あえて分類するなら、愛の形は大きく二種類に分かれる。
ひとつは時間とともに、成熟し深まっていくタイプ。たいてい、初めは興味本位の――あるいは興味本位を装った男と、身体を重ねるところから始まる。お互いに関係を続けることを望めば続くし、どちらかが嫌になれば別れる。
大戦中、連合国翻訳通訳部 に勤めていた時期、カール・ニースケンス中佐との関係はこうやって始まり、そしてニースケンスが女性と婚約したことで終わった。
そして、もうひとつはーー。
ーー相手に恋して始めるタイプ。
どちらが優れているとは言わない。ニースケンスに対して、クリアウォーターは最後の頃には深い愛情を抱くようになっていた。だからこそ、彼が女性との結婚の道を選んだと知った時は、愛情と同じ深さだけ傷つき、立ち直るのにしばらく時間が必要だった。
ただ、それでも経験から一つ言えることがあった。
恋から始まるタイプの場合ーー自制心という名のブレーキの効 きが、非常に悪くなることだ。
巣鴨プリズンからの帰り道。ジョージ・アキラ・カトウが生身の青年となって、目の前に現れた瞬間ーー。
クリアウォーターは、間違いなく恋に落ちていた。
ーーーーーーー
そして今。酔っ払ったジョージ・アキラ・カトウが、クリアウォーターの腕の中にいる。
それもササキにいたずらで飲まされた酒の影響で、頬を赤く染めて。どうにも困惑させられる状況だ。同時に、どうしようもなく血が熱く速く血管を流れ出す。
クリアウォーターは、カトウの細い黒髪にそっと指をはわせた。指先がうなじの刈り上げた所に触れると、カトウは不機嫌そうにうなった。
「……くすぐったいです」
「ああ。すまない」
カトウが身じろぎする。それで離れるかと思いきや、次に取った行動は完全にクリアウォーターの意表をつくものだった。
くるりと身体の向きを変えると、カトウは赤毛の上官の胸に顔をうずめてきた。
「あったかいですね、少佐」呪文のように、カトウは繰り返した。
「……温かいものが、好きなのかい?」
日頃のクリアウォーターなら鼻であしらいそうな、らちもない質問だ。
カトウは律儀に答えた。
「ええ、好きですよ。あったかくて柔らかいもの…大好きです。縁側で干した布団とか、冬のこたつとか、猫とか……」
語尾が途切れて、あやしくなる。
コップをサイドボードに置いたクリアウォーターは、カトウの背中にそっと両腕を回した。
カトウの身体は痩せて、華奢といっていいくらいに細い。それでも、シャツ越しの温もりが、確かに血がかよって生きていることを伝えてきた。
カトウはハグしてくれなかったが、クリアウォーターはかまわなかった。
しばらく、抱きしめたまま相手の体温を静かに味わった。
ーーこのあたりでやめるべきだ。
理性がささやく。あるいは、良心かもしれない。
その思いと裏腹に、クリアウォーターの両腕は少しも動かなかった。
「……しょーさ ?」
カトウの声にわずかに不審の色が混じる。クリアウォーターは仕方なく、腕をゆるめた。
その時、濡れた黒い瞳と目が合った。カトウの細い首が、ゆっくり傾く。だらしなく半開きになった口の中で、まるで誘うかのように舌が動いた。
そこで、クリアウォーターの自制心は一気に底を尽いた。
右手をカトウの後頭部に回すと、そのままカトウの開いた口にクリアウォーターは自分の唇を押しつけた。
まずカトウの体温が、それからカクテルに使われたウィスキーとライムジュースの匂いが、呼気を通じて伝わってきた。舌が触れ合った時、久しく忘れていた衝動が、クリアウォーターの胸の奥からあふれた。
――もっと、触れたい。貪 りたい。口づけよりも、その先に――。
だが、相手はそれを許してくれなかった。一瞬、暴れたかと思うと、カトウが両手に満身の力を込めて、クリアウォーターを引きはがした。
「な、え………」
パニックに襲われた顔だった。逃げ出そうとするが、足元がまだふらついている。カトウはそのまま、ソファからカーペットの敷かれた床の上に、ぶざまにずり落ちた。
床にへたりこんでなお、カトウは後ずさった。その姿はまるで、人間に悪さをされて必死で逃げようとする黒猫そのものだった。
我に返ったクリアウォーターが感じた気まずさと、恥ずかしさといったら、たとえようもなかった。
しかし、日ごろの善行に、守護天使がお目こぼしをしてくれたのか。
まさにその時、小図書室のドアがノックされ、お手伝いの西村邦子が顔をのぞかせた。
「旦那さま。佐々木さんという方からお電話です……あらまあ!」
邦子は床にへばるカトウを見つけて、慌ててかけよった。
「お客さま。大丈夫ですか? …ちょっと、旦那さま! ちゃんとお世話してくださらないと、困りますよ。もう……」
電話は廊下に置かれている。クリアウォーターが受話器を取ると、通話口から事の発端を作り出した男の声がした。
「いやあ。宿舎に帰ったんですけど、あの後どうなったか心配になったもんで……。カトウの奴、大丈夫ですか?」
「……ああ。ちょっと、大丈夫じゃなさそうだな」
その声は物柔らかなのに、聞いたササキはなぜか背筋が冷えた。
電話越しだったことに、ササキは感謝すべきだろう。この時、クリアウォーターの口元には、人食いライオンさながらの笑みが刻まれていた。
「すまないが、ササキ。カトウを迎えに来てくれ。その方が、君の罪悪感の軽減にも、いいかと思うんでね」
ともだちにシェアしよう!