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第四章(⑨)
ーー翌朝。
「あ……あたまが……割れそうだ……」
生まれてこの方、最悪の頭痛とともにカトウは目を覚ました。先ほどからずっと、耳の奥で季節外れの除夜の鐘が鳴りひびいている。ぐわん、ぐわん、ぐわん……。
ベッドの上で、寝返りを打つのさえ一苦労の体調である。そのくせ、昨日パーティがお開きになった後、わが身に起こった出来事でけは、ばっちり記憶に残っていた。
クリアウォーターとキスした時の感触まで。ーー思い出したカトウは、うめいて枕に頭を沈めた。
ーー何で、あんなことになった……?
いや、そもそも隙を見せた自分にもいく分、原因はあろう。ササキにイタズラで飲まされた酒のせいで、まともにものを考えられない状態だったにせよ。
クリアウォーターに、自分の方から密着するなんて、どうかしていた。それでもーー。
ーー……なんか。妙に安心できた。
クリアウォーターの両腕を背中に感じながら。その胸に自分の身体をうずめていた間、カトウは不思議な安 らぎを覚えた。守られている、大事にされているという感覚。もし、あの後の出来事がなかったら、そのまま赤ん坊のように無防備に眠っていたかもしれない。
とはいえーー。
ーーさすがにキスってのは、相手の意志を確認してからするのがマナーじゃないかなあ……。
そこまで考えて、カトウは自己嫌悪に陥った。自分だって、やらかした過去があるではないか。ハリー・トオル・ミナモリ相手に。
「くそっ……結局全部、ササキのせいだ」
カトウは八つ当たり気味に、同僚を呪った。ベッドから手を伸ばし、中古で手に入れた腕時計を手探りでつかむ。文字盤を見ると、すでに始業の九時まで四十分を切っていた。
「……し、仕事。行きたくない……」
両腕を投げ出し、カトウは目を閉じた。そのまま、十数秒。
長々とため息をつき、カトウはせんべい布団に別れを告げて、ふらふらと起き上った。
始業三分前に、カトウはU機関 の建物にたどり着いた。
翻訳業務室に直行すべく、手すりをたぐって階段をのぼり出す。だが二階まであと数段というところで、今もっとも会いたくない相手に鉢合わせした。
三階から降りてきたのは、ダニエル・クリアウォーター少佐だった。固まるカトウを少しの間、見つめた後、赤毛の少佐は淡々と告げた。
「ーーカトウ。悪いが、先に私の執務室に来てくれ」
執務室に入ったクリアウォーターは、椅子ではなく、自分のデスクに軽く腰かけた。
「具合はどうだい? まだ顔色があまりよくないようだが」
「あぁ………仕事をする分には、問題ありません」
カトウは、ぼそぼそと言った。出がけに、洗面所の鏡で見た自分の顔を思い起こす。幽霊を通り越して、施餓鬼(仏教の法会のひとつ。餓鬼道に落ちた亡者を供養する)が必要な亡者みたいに見えた。ジョー・S・ギル大尉がその場にいたら、「餓死して、カラカラに干からびたニワトリみてえなクソ面だな」くらい言ったかもしれない。
「…昨日のことだが」
クリアウォーターが気づかわしげな顔のまま、切り出す。
「君の意志も確かめずに、あのような行為に及んで本当にすまなかった。二度とないようにする」
「あ、いえ……」
思わぬ言葉に、カトウは戸惑った。そういえば、起きてから頭痛がひどすぎて、考える余裕もなかったことに気づく。
そもそもクリアウォーターが何を思って、カトウなぞにキスしてきたのか。
――……まあ別に、考えるまでもないか。
サンダース中尉が言っていたではないか。クリアウォーター少佐は「禁欲的ならざる同性愛者だ」と。それにカトウが周囲から聞いただけでも、過去にサンダース中尉やらアイダ准尉やらフェルミ伍長やら、やたら口説きまくっているようであるし。
ーー要するに、この人は「恋多い」っていうやつなんだろうな。
巣鴨プリズンからの帰り道、クリアウォーターはカトウが同性愛者と見破って、夕食の誘いをかけてきた。それを思えば、昨日ちょっかいだしたのも、軽い気持ちだったのではないか?
そう結論にいたったカトウは、むしろ気分が軽くなった。
同時に名案めいたものが浮かんだ。
「…あー、何のことでしょうか?」
カトウは不思議そうな口調を装って、聞きかえした。それを耳にしたクリアウォーターは、眉をひそめた。
「何って。昨日の……」
「いえ。ササキのやつに飲まされた酒のせいで、昨日のことはさっぱり記憶がないんで……」
カトウは途中で口を閉ざした。なぜだろう。クリアウォーターの緑色の瞳に一瞬、奇妙に悲しげな色がはじけたように見えた。
だが、赤毛の男はすぐに、いつもの微笑を浮かべた。
まるで仮面でも、かぶるように。
「ーー分かった。覚えていないなら、いい。仕事に戻ってくれ」
「…イエス・サー」
一礼して、カトウは執務室を出た。
扉を閉めた後、カトウはしばらくそこに立ち尽くした。
名案だと思って言ったことが、今になって、クリアウォーターをひどく傷つけた気がしてならなかった。
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