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第四章(⑩)

「……仕事があるのは、いいものだね。特に悲しいことがあった時は」 「は? 何かおっしゃいましたか?」  聞き返してきたアイダ准尉に、「気にしないでくれ」とクリアウォーターは言った。  二人は一階にある談話室にいた。日中は休憩室として使われている部屋である。今、その机の上には、昨日から今朝までの間にU機関(ユニット・ユー)に届けられた書類が並べられていた。大半は日本語で書かれたもので、少し英文のものが混じっている。  そこに遅れて、ニイガタが入って来た。 「ーーそれでは、今日もよろしく頼む」  クリアウォーターの号令とともに、三人はそれぞれ書類を手にして、目を通し始めた。  U機関が発足して以来、クリアウォーターは関東地方に蔓延する麻薬の流通網の摘発を進めてきた。そしてつい最近になって、東京都および神奈川県の各警察署にわたりをつけ、前日夕方までに管轄所内で逮捕した犯罪者たちと事件についての報告書を、U機関に上げさせ始めた。  月曜日から金曜日まで、クリアウォーターたちは毎朝欠かすことなく、これらの報告書に目を通し、そこに含まれる情報を吟味して、重要度を判定し、ナンバリングさせていた。英語のものはクリアウォーターの担当で、日本語のものはニイガタとアイダの担当だ。この作業を、クリアウォーターは連合軍翻訳通訳部(ATIS)にいた頃にならって、「情報精査(スキャニング)」と呼んでいた。  クリアウォーターの頭の中には、ひとつの構想があった。現在、追っている麻薬流通網の摘発に限らず、どんな事件も解決の鍵となるのは情報だ。占領下の日本において、リアルタイムで起こっている事柄を把握し、そこに含まれる情報をいつでも使えるように、整理して保管する。必要とあれば、それをGHQの他部門に提供する。ーーそのような情報図書館としての役割を、U機関(ユニット・ユー)に持たせることはできないか、と。  クリアウォーターは現在、情報図書館の構築を手探りで模索していた。日本語で上げられてきた報告書の内、特に重要と判断されたものを翻訳業務室で英語に翻訳する。その上で、他の英語の報告書とともに、一階にある資料保管室で保管する。そのあとはきちんと整理して、必要な時にすぐに取り出して、利用できる状態にしておく。  当初、その整理作業はサンダース中尉とニッカー軍曹の仕事だったが、そこにヤコブソン軍曹が加わったことで、作業効率がかなり上がった。もっとも、サンダース中尉からは、ヤコブソンがこの仕事に非常に有能なのをいいことに、ニッカーのサボり癖が以前にもましてひどくなったと、苦情が寄せられていたが……。  もちろん、少人数だからできることは限られている。現在は人口が集中する東京と神奈川に的を絞って、情報収集に努めている。しかし今後、組織を拡大できれば、日本の各地域を視野に入れることも、決して夢ではないだろう。  作業開始から十分後、アイダが「少佐」とクリアウォーターを呼んだ。珍しいことだ。この作業中は書類に目を通し、各自がメモを作成したあとで情報交換に入るのが常だったからだ。 「どうした?」  顔を上げたクリアウォーターの前に、アイダは読んでいた報告書を示した。 「鎌倉警察から上がって来たものですがーー岩下拓男(いわしたたくお)という男が、昨日、所轄内で逮捕されたそうです」  それを聞いたクリアウォーターは、アイダの手から書類をひったくった。ニイガタも自分の読んでいた書類から顔を上げて、クリアウォーターの手元をのぞきこむ。そこには確かに、鎌倉警察が麻薬の不法所持のかどで、岩下拓男なる男を逮捕したことが記されていた。  クリアウォーターがまだ対敵諜報部隊(CIC)に籍を置いていた昨年の秋。  横浜で麻薬の大きな取引が行われることを知ったクリアウォーターは、参謀第二部(G2)のW将軍を説き伏せ、大規模な一斉摘発を行った。その時、二十人近い関係者を逮捕することができたが、わずかな差で逃した者がいた。  それが岩下拓男ーー裏の世界で名の通った、麻薬の大物売人である。情報屋の貝原靖(かいばらやすし)に追わせていた末端の売人の何人かは、過去にこの男から薬を仕入れていたことが、調査の過程で明らかになっていた。 「アイダ。すまないが、すぐに鎌倉警察に連絡して、逮捕した男の容貌を確認してくれ」 「イエス・サー」  アイダが出ていった後、クリアウォーターは一階から副官のサンダース中尉を呼び出し、事情を説明した。 「逮捕されたのが、本当にあの麻薬売人なら。現在、我々が追っている事件が、大きな前進するかもしれない」  十五分ほどで、アイダは談話室に戻って来た。明らかに、興奮を隠せぬ様子だった。 「確認が取れました。身長百六十センチ。年齢は、四十代半ばから後半。顔と左腕に、刃物によるものと見られる古傷があり、背中には鍾馗(しょうき)と呼ばれる中国の神の刺青をしています」  クリアウォーターを含む全員が色めき立った。それらの特徴はいずれも、指名手配中の麻薬売人の特徴に一致していた。 「岩下を東京に移送するよう、すぐに手配します」  サンダースの提案に、クリアウォーターはうなずきかけて、 「――いや」と答えた。 「鎌倉警察から、逮捕時の状況を詳しく聞きたい。明日、鎌倉に出張しよう。尋問が長引くようなら、その時に改めて移送を手配すればいい」 「承知しました。しかし、明日ですか…」  サンダースが難色を示した。 「明日の午後は、参謀第二部(G2)の本部で会議の予定が入っていますが」 「あ、そうだったか」  クリアウォーターは口元に手をやり考え込む。それから、指を鳴らした。 「ーー会議は、四時か五時頃には終わるだろう。それから車を飛ばせば、夜には鎌倉に着く。翌日、朝一番で尋問が行えるように、私から電話して向こうと調整をつけよう。サンダース。君は泊まる場所の方を確保してくれ」 「了解です」 「通訳は……アイダ。君にまかせる」 「了解です」

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