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第四章(⑫)

「うわぁ、助けて!」  木の枝に宙吊りになった状態で、フェルミは足をばたつかせた。  カトウとササキはそれぞれ窓から身を乗り出し、手を伸ばした。しかし残り一メートルほどの距離を、どうしても縮めることができない。フェルミのつま先から地面まで、目測で五、六メートル。落ちれば、ただでは済まない高さだ。 ーーどうする?!   必死で考えるカトウの目が、すぐそばで揺れ動くカーテンの上に()まった。 「ーーササキ! カーテンを外すの手伝え!!」 「はあ?」 「カーテンの布を広げて、下で受け止めるんだ!」 「なるほど、よしきた!!」  椅子の上にのぼり、二人がかりで金具から布をはがしにかかる。ニイガタとアイダも手を貸した。布と格闘しながら、カトウは窓の外を見やる。フェルミの顔に、苦悶の色が浮かんでいる。すでに、握力が限界に近づいている。 「ふんばれ! 根性でふんばれ!!」  ニイガタが声を張り上げる。しかし、返ってきたのは、「うー、無理」という涙声だ。 「あとで、お前の好きなチョコレートバーやるから、持ちこたえぇ!!」とササキ。 「もう少しだから、がんばってくれ!」思わずカトウも叫んだ。  だが、日系二世(ニセイ)たちの声援もむなしく、フェルミの両手が少しずつ離れはじめた。  とっさに行動したのは、アイダだった。右足をかばうように椅子から下りると、それを両手で握りしめ、フェルミに一番近い窓から突きだした。 「手を伸ばして、この椅子をつかめ!」  それは、いちかばちかの賭けだった。フェルミの右半分の顔が、泣きそうにゆがむ。 「う、うぅーー………」 「早く!!」  アイダの叱咤の声に、フェルミが目をつむる。それから奇声を上げ、片手を枝から離した。 伸ばされたフェルミの右手が、椅子の足と足の間を支える部位をつかんだ。ところが、左手が枝から離れたその瞬間ーーバキッという鈍い音が上がった。    椅子がフェルミの体重に耐えきれず、無残に折れたーーカトウは反射的に、最悪の結果を覚悟した。だが、フェルミは何とか椅子からぶら下がっていた。その間に、床に降り立ったニイガタが、アイダの横から手を伸ばした。  「ーーどりゃ!」のかけ声とともに、二人がかりで椅子ごとフェルミを一気に翻訳業務室の中に引きずり込んだ。  ほぼ同時に、部屋のドアが開き、クリアウォーターとサンダース、それにニッカー、ヤコブソンたちが飛び込んできた。 「一体何が……」というサンダースの問いの語尾は、ニイガタの怒声にかき消された。 「バカたれ――――――!!!!!!!!!!!」  稲妻が落ちたように、室内の空気がびりびりと震えた。 「子どもじゃあるまいし、何をしとるんだ、お前は!!! 一歩間違えれば、大怪我するところだったんだぞ!!」 「うわあぁ、ごめんなさい、ごめんなさい………!!」  フェルミが、裏返った声で叫ぶ。  カトウの耳元で、ササキがぼそっとつぶやいた。 「……ありゃあ、キツイわ」  カトウはうなずき、フェルミに少しだけ同情した。  怒鳴り散らすニイガタに恐れをなしたフェルミは、床にへたり込んだままついに泣き出してしまった。ニイガタのあまりの剣幕に、クリアウォーターやサンダースですら、声をかけるのがためらっている。  ニイガタの雷声を中断させたのは、「衛生兵(メディック)……」の弱弱しい声だった。  カトウたちが視線を向けると、声の主であるアイダ准尉が、壁に背中をあずけて座り込んでいた。顔にあぶら汗が浮かんでいる。その右腕がだらりと肩からぶらさがっていることに、一同はやっと気づいた。 「悪いんだが、誰か俺を病院まで運んでくれ。――さっきので、右肩がはずれた」  医者が診断した結果、アイダの肩脱臼は完全に治るまで四週間ほどかかるとのことだった。  つきそったササキから電話で報告を受けたクリアウォーターは、アイダに数日しっかり休養するよう言づけた。受話器を置き、クリアウォーターはふうっと息をついた。  フェルミをもっと厳しく注意しておくべきだった。  ニイガタが言ったように、一歩間違えれば大怪我をするところだったのだ。もっとも、フェルミ本人は今回の一件をいたく反省したらしく、自分から「もう二度としません」と反省文を書いて帰って行った。  しかし一方で、困ったことになった。明日の鎌倉出張に、クリアウォーターは通訳としてアイダを連れていくつもりだったからだ。とてもではないが、今の状態では予定を変更せざるを得ない。 ーーではいったい誰を?  クリアウォーターは自問し、そして頭をかいた。  U機関(ユニット・ユー)のメンバーで、アイダと互角のレベルで日本語を理解し、その場で英語に訳せる人間はひとりしかいなかった。

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