56 / 264

第四章(⑬)

 「え? 少佐の出張に同行しろ、ですか?」  「フェルミ伍長墜落未遂事件(命名者:ササキ軍曹)」の翌朝。  出勤したカトウを待っていたのは、予想外の命令だった。うろたえる部下を、ニイガタ少尉は不審げにじろりとにらんだ。 「何か、問題でもあるのか?」 「いえ……」カトウは口ごもった。  まさか二日前のガーデン・パーティの後でクリアウォーターにキスされて、気まずいことになったとは口が裂けても言えない。  ニイガタは、カトウが大役に緊張していると勘違いしたらしい。少し、口調をやわらげた。 「アイダの代役だ。自分が選ばれたことを名誉に思って、しっかりやって来い。今回の出張はお前を含めて四人で、出発は夕方になるそうだ。ーー昼休みを長めに与えるから、その間に準備してこい」  午後の会議で使う資料。それから、岩下拓男(いわしたたくお)の尋問に必要と思われる調査報告書の類。サンダースが机の上に準備してくれた資料に、あらかた目を通すだけで、クリアウォーターの午前の時間はほぼつぶれてしまった。ようやく一息ついた時には、すでに十一時半を回っている。クリアウォーターは気分転換を兼ね、コーヒーを淹れるために一階にある給湯室へ向かった。  その途中で、フェルミ伍長にばったり出くわした。昨日の騒動がまだ尾を引いているらしく、フェルミはいつになく元気がなく、しょんぼりしていた。 「リチャード・ヒロユキ・アイダに本当に悪いことしちゃった。お見舞いに行きたいけど、ぼくが行ったら迷惑かな……」 「そんなことはないさ」クリアウォーターは請け合った。 「だけどアイダは今日の午後には退院するそうだから。もし都合が合えば、明後日にでも一緒に彼の住んでいる宿舎に見舞いに行こう」  クリアウォーターの提案を聞いたフェルミは、少し元気を取り戻したようだった。 「あのね、ダン。昨日はみんなに迷惑いっぱいかけたけど……ちょっと、うれしかった」 「うれしかった?」 「ぼくが木から落ちそうになった時、みんな必死で助けようとしてくれたんだ。ジョージ・アキラ・カトウとマックス・カジロ―・ササキは窓から身を乗り出して、手を伸ばしてくれた。リチャード・ヒロユキ・アイダは、機転をきかせてぼくを助けてくれて、ケンゾウ・ニイガタと一緒に部屋に引き込んでくれた。そのあと、ケンゾウ・ニイガタにはすごく怒られたけど……あれだって、心配してくれたからって、分かってるから」  フェルミはスケッチブックを抱え直し、いつものように「にへっ」と笑った。 「それが全部、すごくうれしかった」  聞いていたクリアウォーターの顔が、自然にやわらいだ。 「そのことを今度、見舞いに行った時に、アイダに伝えてあげなさい。ーーでも、もう二度と心配をかける真似はしないように」 「はあい」神妙に答えたフェルミは、期待するような目をクリアウォーターに向けた。 「ねえ、ダン。いつもの、お願い」 「オーケイ」  ちょうど階段の段差が、二人の身長差を埋めてくれた。フェルミを抱き寄せると、クリアウォーターは赤子の肌のようにすべすべした半面と、無残に崩れた半面に、それぞれ平等にキスをした。  二日前に、カトウと交わした口づけがふと脳裏をよぎる。今のような、やさしく抑制されたものではない、突き上げてきた欲望に従ったキス……。  腕の中で、フェルミがぷうっと頬をふくまらせた。 「ちょっと、ダン? 今、ほかのこと考えてたでしょ」   ーー……うん、鋭い。  フェルミはふくらませた頬を引っ込めると、スケッチブックを手早くめくった。そして、その一枚をちぎって、クリアウォーターに差し出した。 「あげる。大事にしてね」  くるっと身を翻し、フェルミは彼のために用意された部屋へと戻って行った。  残されたクリアウォーターは、手元のスケッチに目を落とした。  予想した通り。そこには、ジョージ・アキラ・カトウ軍曹が描かれていた。ただし、この前、フェルミに見せてもらった一枚とはまた違う。  今にも窓から落ちんばかりに身を乗り出し、こちらに向かって手を伸ばしているカトウは、クリアウォーターが初めて見る顔をしていた。  クリアウォーターは頭をかいた。コーヒーは、一度棚上げだ。  貴重な絵をこっそり保管すべく、赤毛の少佐は自分の執務室に戻って行った。  ……クリアウォーターの気配が階上に消えたのを見はからって、カトウはようやく張りついていた壁から身体を離した。一体、何をしているんだか、と自分でも思う。 ーー別に、どうでもいいじゃないか……。  クリアウォーターが、誰とキスしようが。カトウに関係あるはずがない。  それでも自分の宿舎にたどり着くまでの道中、カトウはもやもやした気分を抱えたまま、ずっと「関係ない、関係ない」と、自分に言い聞かせなくてはならなかった。

ともだちにシェアしよう!