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第五章(⑥)

 荻窪を出発したジープは、新宿を過ぎ、明治神宮を右手に南西へと向かった。ちょうど夕食のしたくが始まる時間帯で、沿道の家々やバラック小屋のあちこちから炊煙が上がっている。路上では市電や木炭バスに混じって、帰宅するらしい勤め人の姿がちらほら目立ち始めた。  多摩川をわたると、ほどなく川崎市内に入った。ニッカーは鎌倉に何度か車で行ったことがあり、「ゆっくり安全運転で行っても、二時間くらいで着ける」と保証していた。  横浜の手前に差しかかる頃、ちょうど日が暮れた。市内を走る内は気にならなかったが、郊外に出た途端、暗闇が四方から包み込んできた。道は未舗装である。ニッカーは先ほどまでしゃべっていたが、今は口を閉ざして運転に集中していた。  その隣りの助手席でカトウは目を閉じ、背もたれに身体をあずけている。慢性的な不眠症は、まだ続いていた。昨日の夜も十分には眠れなかった。悪夢こそ見なかったが、眠りに落ちかけては、そのたびに何度も目覚めることを繰り返し、そして朝を迎えた。  まるでタコツボで過ごしていた昔にもどったみたいだと、カトウは思った。神経がおかしくなって、覚醒と深い眠りの両極端を行き来していた頃に似ている。  ただし、眠りの方は中々訪れてくれないが。   --クソの葉っぱには、二度と手を出すなーー  元上官のギルに、カトウは約束させられたーー大麻(マリファナ)や他の麻薬には金輪際、手を出さないと。今のところ、何とかそれを守っている。だが、この状態が続けば、どうなるかーー自分で、自信が持てなくなってきた。まだ睡眠薬を買う誘惑を、カトウはかろうじてこらえている。睡眠薬を過剰摂取して自殺した作家を、カトウは知っている。その知識があるから、買わない。  買ったが最後、気分の落ちこんだ夜に絶対に同じまねをする自分を、容易に想像できてしまうからだ。 ーー本当。いい加減、病院に行った方がいいな。  それまでは、眠気が訪れた時を狙って仮眠するしかなさそうだ。思い返しても、この前の日曜日に、看護婦であるニイガタ少尉の奥さんと話ができなかったのが悔やまれた。   ーー……。  その単語が、胸のあたりをざわつかせる。  ガーデン・パーティ。酒。それからーー……。  いきなり後ろから肩をたたかれ、カトウは座席の中で軽く飛び上がった。 「疲れたかい?」  頭上から降ってきたクリアウォーターのささやきに、カトウは身を強ばらせた。 「……いいえ」と答える声が我ながら固い。クリアウォーターは気づいただろうか? 「ーーあと三十分ほどだよ。着いたら、まず夕食にしよう」 「……楽しみにしています」  ぼそぼそとカトウは返事をする。気配で、クリアウォーターが笑うのが伝わってきた。  低く、少しかすれているが、耳に心地よい笑い声。  それを聞いた途端、日曜日に交わしたキスの感触が、不意にカトウの唇の上に(よみが)った。あの大きな口で。クリアウォーターは覆いかぶさり、カトウが反応もできない間に、力強さと情熱を、一方的に注ぎ込んできたのだ。唾液で濡れた熱っぽい舌と一緒にーー。  カトウは猛然とその記憶を打ち消そうとした。だが、そうするほどに勝手にそれは溢れだし、鮮明さを増し、身体が勝手に反応し出した。  舌が湿り気を帯びる。頬が自分でも分かるくらいに熱くなり出す。暗いのだけが幸いだ。  さもなくば、真っ赤になった顔を見られて、またからかわれたに違いない。 ーー理不尽だ…!!  カトウは心の中で叫んだ。クリアウォーターはきっと、軽い気持ちで、カトウを弄んだだけに決まっている。サンダースが言っていたではないか。「少佐は禁欲的ならざる同性愛者だ」と。おまけに昼間、フェルミとの仲睦まじげな様子を見てしまった後では、なおさら確信せざるを得ない。  クリアウォーターがカトウにしたことなど、遊び以外の何者でもないのだと。  カトウは肩を震わせ、膝の上で両手を強く握りしめた。ヘッドライトに照らされた前方の道に目をこらす。景色だけ見ていれば、少しは気がまぎれるかもしれない。そう思った。  ジープはちょうど、車一台がかろうじて通れるくらいの狭い道を走っていた。半月より少しふくらんだ月が、雲間から地上を照らしている。その淡い青白い光の下で、まだ稲の植えられていない田んぼが、道の両端に静かに広がっていた。  平和な田舎の道。何も警戒する要素はないーーそのはず……。  だが不意に、カトウの背筋を悪寒が駆け抜けた。  その直後、眼の端で赤い光が瞬く。  次の瞬間、轟音とともに猛烈な光がはじけ、視界を白一色に染め上げた。

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