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第五章(⑦)
飛び散った土砂がフロントガラスを叩く音も、ニッカーがブレーキを踏んだ音も、急ハンドルを切ったジープが上げた悲鳴に近いきしみも、すべて爆音にかき消された。ジープの車体が滝壺に落ちた小舟のようにめちゃくちゃに揺れる。
それはすぐに、浮遊感に取ってかわった。
カトウはとっさに、座席を両手でつかんだ。車体が右側に傾き、ジープの内側に取りつけられたヒップクラッシュ・パッドに身体がぶつかる。一瞬おくれて、地面に衝突した震動が、肩を右から左へと貫いた。
叩きつけられた衝撃で、ジープのフロントガラスが音高く砕けた。ガラスの大きな破片が、カトウの耳元をかすめる。破片はそのまま、さっきまで座っていた助手席の背もたれに、ぶすりと突き刺さった。
……一瞬、遠ざかった意識は、幸運にも数秒で戻ってきた。
カトウは浅く早い呼吸を繰り返した。昔のくせで身体を確認する。右手、問題なし。左手、オーケイ。両足は……大丈夫。つまさきもついているし、足首もちゃんと動く。首も動くし、どこかの骨を折った様子もない。
カトウは自分でも驚いた。ジープの惨状と裏腹に、ほとんど無傷で済んだようだった。
「……う……あ……」
うめき声のした方に、カトウは目を動かした。目と鼻の先で、まだハンドルを握ったままのニッカーが、頭から血を流していた。その血が、カトウの左肩にぽたっと滴り落ちる。そこで、ジープが九十度横転した状態にあることにカトウはようやく気づいた。
頭がふらつく。一体、何が起こった?
ーーいや、何が起こったかは今は問題じゃない。それより……。
「……少佐……クリアウォーター少佐!!」
かすれた声でカトウは叫んだ。身体を必死でよじり、後部座席をのぞきこむ。
暗闇の中で一対の緑色の眼がまばたきし、カトウを見つめ返した。
クリアウォーターが身を起こす姿を目にし、カトウはこれ以上ないくらいに安堵した。
「……無事か、カトウ?」
「はい、俺は大丈夫です。ニッカーも怪我をしていますが、生きています」
「いい子だ !」
弱弱しいが、しっかりした声でクリアウォーターはささやいた。
その時になって、風が湿った土の匂いを運んできた。
カトウは、クリアウォーターの姿に目をこらした。トレードマークの赤毛や、大きな身体のあちこちに、粒子の細かい土が稲わらと一緒にこびりついている。
のちに判明したことだが、カトウたちの乗ったジープは道路を外れて外へ飛び出した後、五メートルほどの高低差がある斜面を斜めに滑落した。そして、そのまま田植えに向けて掘りかえされていた、柔らかい土の上に落ちたのである。
そのためジープが受けた衝撃は、当初、思われていたよりずっと軽く済んでいた。
「ヤコブソン! ……ジョン、起きろ!!」
クリアウォーターの声に、初めて焦りがにじんだ。目をこらしたカトウは、その理由をすぐに悟った。柔らかい土の中に、ジョン・ヤコブソン軍曹の巨体が半ば沈んでいる。ぴくりとも動かない。生きているとしても、このままでは窒息してしまう。
窮屈な車内で、クリアウォーターはバランスを取りながら、腕を伸ばした。前部から身を乗り出したカトウも手伝う。クリアウォーターがベルトを、カトウがえりくびをつかみ、やっとのことで、大男の身体を土の中から引きずり出した。
クリアウォーターは気絶した男を抱きかかえ、その頬を叩いた。何度目かで、切れた口からうめき声がもれた。続いて大きなせきをして、ヤコブソンは息を吹き返した。
カトウは、ほっと息を吐いた。日曜日の一件で、ヤコブソンとはまだ仲たがいしたままだったが、さすがに死なれては寝覚めが悪すぎる。生きている方が、いいに決まっている。
だが安心するのは早すぎた。
パアン、パアン、パアン。
リズミカルな音が空気を切り裂いたかと思うと、カトウの背後で立て続けにカアン、カアン、カアンという音が上がった。金属同士がぶつかる音に、カトウは聞き覚えがあった。
廃ジープやトラックの車体に、鉛の銃弾が当たった時の音だ。
「……伏せて!!」
カトウは叫んだ。にわかに信じられない現実が、頭を混乱させた。
ーーなんでだ………なんで、銃撃されている!?
しかし、さらに信じられない光景が、カトウの目に飛び込んできた。頭から血を流しながら、ニッカーがハンドルと運転席の狭い隙間から、必死で外にはい出そうとしていた。
「!! ーーバカ、頭を出すな!!!」
カトウはニッカーを車内に引きずり戻そうと、後ろから羽交い絞めにした。だが普段、陽気で気さくな男はこの時、別人のようにわめき、力まかせにカトウの身体を殴りつけた。おそらく、パニックに陥っていたのだろう。胸をしたたかに殴られて、カトウは息がつまった。思わず手がゆるむ。気づいたクリアウォーターがとっさに後部から手を伸ばしたが、それでも間に合わなかった。
車外に突き出たニッカーの上半身が、雲から顔をのぞかせた月にくっきり照らし出された。
その途端、複数の銃声が立て続けに闇を切り裂いた。
パアン、パアン、パアン--
銃声の残響が消え去るより先に、ニッカーの身体がぐらりと傾いた。受け止める形になったカトウの顔と手に、生温かい液体がかかる。それから馴染みのある鉄くさい臭いが、鼻腔いっぱいに広がった。
「ニッ……」
返ってきたのは、ゴボゴボという音だった。カトウは、その音の正体を知っていた。
ぱっくり開いた咽喉 の傷から、血が溢れ出るあの音だった。
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