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第五章(⑨)

 すでに、敵は元の位置から前進している可能性が高い。それを見越して、カトウは狙いをつけた。だが、ちょうど雲が月を隠している。暗すぎて、未知の襲撃者たちに当たったかどうか、確認できない。しかし少なくとも足止めにはなったはずだーーそう願いたかった。 「少佐! (ほろ)を――」  カトウの語尾に、ジープの幌がナイフで切り裂かれる音が重なった。  カトウは、かすかな昂揚感をおぼえた。いいぞ。クリアウォーターはカトウの指示などなくても、自分の役割をきちんと理解してくれていた。  幌に人ひとりが通れるほどの切れ目を入れたクリアウォーターは、まだ自失ぎみの大男の肩を強く叩いた。 「ヤコブソン! カトウが撃ち出したら、君から脱出しろ。出たら、月が雲に隠れるのを見はからって、できる限り身体を低くして土手沿いに前方に向かって走るんだ」 「…イエス・サー!」半分裏がえった声で、ヤコブソンは答えた。  その返事を合図に、カトウは再び引き金を引いた。リズミカルな射撃音。おりしも風が吹き、散らされた雲間から月の光が差し込んだ。  複数の人影が、土手の上で慌てて伏せるのが、カトウには確かに見えた。  それからすぐに、相手側から反撃が来た。  カアン、カアン、カアン。  銃弾がジープの車体に命中し、跳ね返って、田んぼの土の中にめりこむ。その間に、即席の脱出口から、ヤコブソンが必死ではい出した。後ろにクリアウォーターが続く。そして穴の外から両腕を車内に突っ込むと、血まみれでぐったりするニッカーの身体を引きずり出した。 「カトウ、急げ!」 「分かっています。すぐに行きますから、先に避難してください!」  カトウは人影が動いたあたりに、トミー・ガンの狙いを定めた。    タッタッタッタッタ――。 「カトウ!」    カトウは舌打ちした。先に行けというのに。  クリアウォーターはカトウが動くまで、ここから離れるつもりはないようだ。  おりしも、マガジンの弾が切れた。潮時だ。カトウは予備のマガジンを、ありったけポケットにつっ込むと、後部座席に転がり込み、幌にあけられた穴から脱出した。  雲間からのぞく月が、掘りかえされたばかりの田を青白く照らしている。それが再び、雲に隠れた。その瞬間を狙って、クリアウォーターとヤコブソンが二人がかりでニッカーを背負って走り出した。  トミー・ガンを抱え、後ろを守るカトウには、二人の速度がまるで亀のそれに感じられた。 ――急げ、急いでくれ!  背後で、銃声が上がる。ジープの車体に弾がはじける音が、かすかにカトウの耳に届く。  大丈夫だ。こちらが脱出したことに、正体不明の敵はまだ気づいていない。  すでにクリアウォーターが、月が出ていた時に避難する場所を見定めていた。土手沿いに進んだ先に見えた、丘とも小山ともつかぬ場所。日本の農村につきものの里山(さとやま)だ。生い茂った木々が、少なくとも追手から姿を隠してくれるはずだ。   そこを目指して、三人は駆けた。だが、八十メートルほど進んだ時、突然、周囲の土が跳ね上がった。 「――おい、こっちだ!!」  土手の方から、日本語の叫びが上がる。カトウはあせった。 ーーまずい。脱出に気づかれた!    だが里山の方も、もう目前に迫っていた。  その時、背後から声が聞こえてきた。 「赤毛の男だけは、絶対に仕留めろ!」

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