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第五章(⑭)

 三十分に一度、クリアウォーターはヤコブソンの腕のしばった部分をゆるめた。鬱血(うっけつ)するのを防ぐためだ。傷口を見るのが恐ろしいのか、ヤコブソンはなるべく自分の腕を見ないようにしていた。  クリアウォーターはなぐさめるように言った。 「数時間後、君は病院で医師から適切な治療を受けている。あと少しの辛抱だ」 「……カトウ軍曹をずい分と、信頼されているんですね」 「まあね」と答え、クリアウォーターは部下を安心させるように微笑んだ。 「彼が卓越した射撃の腕を持つ優秀な兵士であることは、君もすでに知っているだろう」 「確かに語学兵にしちゃ、たいした奴だと思いますが」 「カトウは語学兵ではないよ」 「へ?」 「少なくとも、先の大戦中はね。ヤコブソン軍曹、君なら覚えているんじゃないかい? 陸軍に日系アメリカ人で編成された、ある連隊があったことーー」  赤毛の上官の言葉に、ヤコブソンは記憶の糸をたぐりよせた。  確かに。一九四六年七月十五日ーーホワイトハウスでトルーマン大統領が自ら、日系人連隊に大統領感状を与えたニュースを聞いたし、新聞で見た覚えがある。    死傷者のあまりの多さから、「パープル・ハート部隊(パープル・ハートは戦闘によって死傷した兵士に与えられる勲章)」と呼ばれた日系人の連隊。  アメリカ陸軍第四四二連隊戦闘団だ。  日系二世から編成された第四四二連隊は、イタリアとフランスの戦地でドイツ軍と戦った。  フランス戦線では、ドイツとの国境近くにある「ボージュの森」でドイツ軍に包囲され、全滅の危機にあった第一四一連隊第一大隊、通称「テキサス大隊」を救出したことで、一躍名前を知られるようになった。さらに翌年、イタリア戦線において、連合軍が五ヶ月費やしても破ることのできなかったドイツ軍の防御線「ゴシック・ライン」を、攻撃開始のその日に突破している。  アメリカ陸軍の歴史の中でも、その精強さにおいて間違いなく指折りの連隊である。 「……まさか、あのチビが?」  ヤコブソンは信じられぬという風につぶやいた。 「カトウとのケンカは控えろよ、ヤコブソン」クリアウォーターは大真面目な顔で言った。 「ああ見えて、ジョージ・アキラ・カトウ軍曹は、テキサス大隊救出とゴシック・ライン突破のどちらにも参加して、その時の功績で銀星章(シルバー・スター)を二度授与された。ーー文字どおりの強者なんだ」 ーーーーーーーー  雲が、沈みかけた月を時々隠す。  街灯もない田舎道を、カトウはできうる限りの速度で駆けた。  風が吹きぬけ、山野がざわめくたびに、時間が巻き戻っていく気がする。  一九四四年十月のあの夜。暗い針葉樹の森の中で、ハリー・トオル・ミナモリを永遠に失ったあの瞬間に向けて。  ひた走るカトウは、不意に錯覚にとらわれる。  ミナモリの気配がする。いや、確かに見えた。  木々の影に、あの見間違えのない後ろ姿が……。  今、この瞬間にも、月明かりの届かぬところでカトウを探している。 「アキラ、アキラ」と、カトウに向かって呼びかけながら……。  カトウはくちびるを噛んで、その幻想を打ち消した。  冷たい口づけで、最後の別れを告げた。    ちゃんと分かっている。  トオルは――。    カトウの思考は、それ以上どうしても進めなかった。トオルは、に続く言葉をどうしても続けられなかった。 ーーーーーーー  クリアウォーターは光が漏れぬよう細心の注意を払い、ポケットのフラッシュライトをつけた。腕時計の文字盤を確認すると、カトウが駆け出して二時間近くが経過していた。  ヤコブソンはまだ意識を保っていた。気力は限界に近づいていた。何度かクリアウォーターは言葉をかけ、励ましたが、今はもう力なく、首をたてに振るばかりだった。  フラッシュライトを消してほどなく、少し離れた方向から物音がした。  明らかに風の音ではなかった。   ーー足音……? それも複数で、徐々にこちらに近づいてくる。  クリアウォーターの全身に緊張が走る。ヤコブソンの方を見ると、青い目に怯えがありありと浮かんでいた。  クリアウォーターは、自分の四十五口径を握った。  それから、いつでも撃てるようにして耳を澄ました。 「――少佐、クリアウォーター少佐!」  クリアウォーターの緊張が、たとえようもない安堵に変わった。 「ここだ、カトウ!」  待つほどもなく、木々の間からカトウが顔をのぞかせた。その後ろに、ガーランド銃を(たずさ)え、アメリカ陸軍の軍服を着た頼もしい男たちが続いて現れる。    クリアウォーターは、孤独で無力な待機時間が終わったことを知った。

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