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第五章(⑱)
半分濡れたままの身体にカトウは無理矢理、下着を着せた。髪の先から水滴がしたっているが、タオルでぬぐう気力もない。浴室から自分の部屋まで、ほとんど酔っぱらいのような足どりでたどり着く。
そこで、部屋の鍵を脱衣所に置き忘れたことに気づいた。
「この、まぬけ……」
カトウは目を閉じ、ずるずると扉の前に座りこんだ。寒いな、と思った。寒さには強い方だと自信があったはずなのに。手足に力が入らない。昔は、連日の戦闘でも何とかこなしたのに数時間でへばるなんて。ずい分、なまったものだ……。
「……トオル」
その名前を口にした途端、カトウの両目から涙があふれてきた。
ーーーーーーー
初めて人間を撃ち殺した夜、カトウは眠ることができなかった。
連隊の仲間と過ごす昼間は気が張っていて、何事もないふりを続けることができた。だが日が沈み、二人用のテントの中で横になって目をつぶると、いやでも殺した人間のことが浮かんできた。
日系人連隊の猛攻にさらされたドイツ軍の兵士たちが、耐えきれずに後退して逃げていく。
その男たちの背中を、地面に伏せたカトウはガーランド銃で狙い撃ちにした。
撃っている時は、極度の緊張と興奮で、ほとんど何も考えずに引き金を引き続けた。だが、そのあと味方とともに、遺棄された陣地まで前進した時、死体を前にしてぞっとなった。
ーー背中を向けて逃げ出す相手を、自分はためらいもなく撃った。
しかも、そいつが前のめりに倒れた時に、軽い昂揚感 すら覚えたのだ。
自分の中に、そんな血を好む殺人者の心があるとは、思ってもみなかった。
時間が経つほどに、カトウの胸の内に恐怖がわいてきた。底の見えない嫌悪感も。
思い出したのは、父親のことだった。正直、二度と会いたくない。
カトウは実の父親を、心の底から軽蔑し、嫌っていた。
誰かを半殺しにしたことを、自慢するような男。暴力を振るう以外に、何の能もない男。そして、その暴力を息子に向けて、恐怖で支配しようとした男ーー
そんな最悪の父親と、昼間の自分の姿が、ぴたりと重なった。
「アキラ?」
背中の方から上がったミナモリの声に、カトウはびくっと身体を震わせた。
二人用のテントを張る時、ミナモリとカトウはたいてい同じ空間を共有した。上背のあるミナモリと一緒に寝て、窮屈な思いをしない人間が限られていたからだ。もっとも、そんな理由がなくても、二人はやはりお互いを選んだに違いない。
「お前といる時一番、気分が楽なんだ。何て言うかーーリラックスできる」
ミナモリは、カトウにそう言って憚らない。
そして、カトウの方の理由はーー言うまでもないだろう。
暗闇の中で、ミナモリがもぞもぞと動く気配が、カトウに伝わってきた。
「アキラ。ひょっとして…泣いているのか?」
ほかの人間に聞かれたのなら、カトウは絶対に否定しただろう。事実がどうであろうとも。
でもこの時、聞いてきたのは他でもないミナモリだった。
「ーーなあ、トオル」
「うん」
「俺……:」
カトウは、嗚咽をこぼした。
感情が膨れ上がって、歯止めがきかない。言葉にならない。何に、泣いているのかも分からなくなる。
ーードイツ兵たちを殺したことを、今になって後悔しているのか。
ーー人を殺したその時に、何も思わなかったことに慄然 としているのか。
ーー大嫌いな父親と同じものを、自分の中に見つけてしまったからか。
震えだすカトウの身体に、ミナモリが腕を回す。
カトウはその両腕にすがりつき、むせび泣いた。
ミナモリは何か言って、なぐさめてくれた気がする。だが、カトウの耳にはろくに入ってこなかった。ただ背中に回されたミナモリの腕の感触だけ、はっきりと覚えている。そして、あやすように背中をさする手つきも。
そのミナモリはーーもういない。
一九四四年十月のあの夜に。
カトウは死に損なってから、ずっとひとりぼっちで過ごしてきた。
どれほど震えていても。泣いていても。
それを分かち合ってくれる相手は、もはやいない。
――……いやだ。
カトウは、涙で濡れた顔を膝にうずめた。
ーー俺は耐えられないんだ。ひとりでは耐えられないんだ。恐怖も、寒さも、孤独も……。
ーーお願いだから。ひとりにしないでくれ。
声を押し殺して、カトウは泣きだす。
その時、ガチャッと、ドアがすぐ近くで開く音が聞こえた。
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