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第五章(⑲)
………ベッドに入って半時間。
身体も頭もくたびれ果てているはずなのに、一向に眠気が訪れない。クリアウォーターは何度も寝返りを打った挙句、ため息をついて起き上がった。廊下を歩けば少しは気も静まるだろう。クリアウォーターはそう考えてベッドからはい出し、部屋のドアを開けた。
誰もいないと思った廊下の対面に、小さな男が座敷童 よろしくうずくまっていた。
クリアウォーターは、軽く飛び上がった。心拍がひとつ抜けたかもしれない。しかし、暗がりの中でも、細く小柄な体格には、すぐに見当がついた。
「…カトウ? そんなところで夜を明かしたら、風邪をひくぞ」
その声で、カトウが顔を上げた。その時になって、部下の様子が明らかにおかしいことに、クリアウォーターはようやく気づいた。
黒い髪からしたたり落ちる水滴のせいで、シャツが濡れそぼっている。目は赤く、虚ろで、涙の跡が頬にくっきり残っていた。思わず、クリアウォーターが手を伸ばすと、触れた相手の手の甲は、氷のように冷たくなっていた。
クリアウォーターの心に、軽い怒りがわきあがってきた。
襲撃者から逃れる途中、振り返ってカトウがいないことに気づいた時、心臓が冷たい手で握りつぶされる思いを味わった。背後で響くトミー・ガンの銃声で、クリアウォーターは自分の部下が何をしたかを悟った。
カトウはクリアウォーターたちを逃がすために、その場に一人踏みとどまって、戦うことを選んだのだ。
――いざとなったら、君が私を守ってくれ。
クリアウォーターは以前、カトウにそう言った。半ば冗談で言ったその言葉を、カトウは律儀にも守ろうとしたのだ。
そのために、自分が殺されることになったとしても。
その事実こそ、クリアウォーターがもっとも許せない部分だった。
たとえ、上官を守るためであったとしても。軍隊の規律からして、正しいことだとしても。いかに高邁 で気高く見えるとしてもーーどの部下にも、そんな真似はして欲しくなかった。
自分の生命を犠牲にする真似など、して欲しくない。
カトウに、そんなことをして欲しくはなかった。
そして何より。自分の存在を粗末に扱う人間が、クリアウォーターは大嫌いであった。
クリアウォーターは自分でも思いがけず、厳しい口調になった。
「何をしているんだ! こんなにずぶ濡れになって。冗談でなく肺炎になったら、どうする……」
クリアウォーターは途中で口を閉ざした。カトウがすがりつくように、クリアウォーターの腕をつかんできたからだ。
「カトウ……?」
「……」
返事はない。言葉に出しては。
だが濡れた黒い眼は明らかに、クリアウォーターに何かを訴え、求めていた。
「カトウ」
「……」
「この前みたいに、間違えたくないんだ。どうして欲しいか、君の口から言ってくれ」
「……」
「頼む」
ほとんどかすれて届かぬほどの声が、カトウの唇から洩れた。
「抱きしめて。お願い…」
クリアウォーターは、言われた通りにした。濡れて、芯から冷え切った身体に両腕を回す。前回と違い、今度はカトウの方からハグがかえってきた。
それも痛みを覚えるくらいの強さで。
水気を含んだ黒髪が、クリアウォーターの鼻先をかすめる。そこに顔をうずめると、ひんやりした感触が伝わって来た。それと反比例するように、クリアウォーターの腹の底から、急激に熱がこみあげてきた。
呼吸が浅く、早くなる。抑えきれない欲望が、頭をくらくらさせる。それでも、クリアウォーターは慎重だった。最初に濡れた髪に、それから額に、かろうじて触れる程度に口づける。
カトウの目をのぞきこむ。まつげが触れそうなほどの距離ーーそれでも、カトウは逃げなかった。逆に、さらに距離を縮めんばかりに、頬をクリアウォーターにすり寄せてきた。
クリアウォーターは、もうためらわなかった。
カトウを抱き寄せ、その勢いのままにキスをした。優しくする余裕などない。ただ自分が欲するままに、腕の中にいる青年の唇をむさぼった。酸欠になった相手が息をつこうと口を開いた時、容赦なくそれに乗じて舌を入れる。舌が触れた時、カトウののどの奥からせつない声が漏れた。それを聞いたクリアウォーターの興奮は、いやおうなく高まった。
ーー我慢できない。これだけでは。この程度では……!!
からめていた舌を離し、クリアウォーターは両手でカトウの顔をはさみ込んだ。
「――君に、今から選択肢をふたつ与える」
卑怯者、とののしるのは良心の声か。クリアウォーターは今だけ、それを頭からしめ出した。
「ひとつ。このまま自分の部屋に戻って、ひとりで眠る」
「ひとり」と聞いた時、カトウの目に恐怖に似たものがよぎった。
「もうひとつ。私の部屋に来る。ただし、その場合、君の身体に触れずにはいられない。来るなら――」
クリアウォーターは、はっきりと告げた。
「私は君とセックスする」
カトウの身体が、かすかに震える。だが、沈黙はほんの数秒のことだった。
クリアウォーターの腕にすがるカトウの指に、強い力がこもった。
「お願い」
それはほとんど懇願するような声だった。
「……ひとりにしないで。ひとりは、いやだ」
クリアウォーターは抱きかかえるように、カトウの腰に手を回した。
立たされたカトウは、半ば引きずられるように――それでも自分の意志で、開いたドアの向こうに足を踏み入れた。
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