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第六章(②)

 三分間待って、サンダースがいなくなったのを見はからい、クリアウォーターは急いで浴室に駆け込んだ。シャワーを浴び、服を整えて部屋に戻る。  カトウはまだベッドの上で眠りこけていた。  寝返りを打ったせいで、上掛けがベッドの隅から半ば落ちている。布は腰のあたりに軽くひっかかっているだけの状態で、上半身が日の光に無防備にさらされている。 ーーこれぞ、眼福というものだな。  しかし、背中と腹部に残る傷跡に気づき、クリアウォーターは眉をひそめた。  その傷は、左鎖骨の傷と異なり、履歴書に記録がない。それでもクリアウォーターは、何による傷か、すぐに見当がついた。  イギリスで大学生活を送っていた頃、クリアウォーターは当地の貴族の子弟と肩を並べて、ある機関の主催する「課外授業」にも参加していた。    その機関は、イギリスの将来を担う有能な特殊人材――スパイを養成する場所だった。  ある時、拷問を受けた場合にいかに耐え抜くかという講義が開かれ、実際に授業を担当していた元情報将校が、実体験を「学生」たちに語ってくれた。  「ーー殴られたり、食事を与えられないのも大変だったが……私にとって一番、心が折れそうになったのは、焼けた鉄棒を肩や腹に押し付けられた時だ。まるで、焼印を押される家畜になった気分だった」  彼はそう言って、クリアウォーターを含む「学生」に、火傷の跡を見せてくれた。  カトウの腹や背中の傷は、その火傷の跡に酷似していた。  しかも痕跡から考えるに、かなり前に、それも複数回にわたって負わされたように見える。 ――一体いつ? それも、誰からそんな目に遭わされた?  クリアウォーターは、知りたくなった。しかし、今は時間がない。タイミングも最善とは言い難い。クリアウォーターは上掛けをかけなおしてやり、安らかに眠る青年の肩を揺すった。 「カトウ。朝だぞ、カトウ……」  起きない。  いっそ気の済むまで寝かしておいてやろうか。  しかし、寝顔を眺める内に、クリアウォーターはふといたずら心を起こした。  手を伸ばした赤毛の少佐は、カトウの低い鼻を軽くつまんだ。  効果はてきめんだった。  ぷはっと口を開け、眠っていた青年が目を覚ました。  黒い瞳で、カトウがぼんやりとクリアウォーターを見つめる。  その頬が見る見るうちに朱色に染まるのは、いっそ見ていて面白いほどだった。 「わっ………少佐!!」 「おはよう」クリアウォーターは微笑んだ。  カトウは笑うどころではないようだった。自分がすっ(ぱだか)なのに今さら気づくと、上掛けを頭からひっかぶり、きつく身体に巻きつけた。 ーー………これは、ダメかぁ……。  口もきけないありさまの相手に、クリアウォーターは内心、頭をかかえた。  羞恥心(しゅうちしん)の発露としても、ちょっと極端すぎやしないか。ヴィクトリア朝時代の新妻だって、初夜の後に迎える朝はもっとさばけていただろうに。  なぐさめるべきか。いや、どう考えてもこの状態のカトウに、昨夜のことをにおわせる台詞は逆効果というものだ。  クリアウォーターは悩んだあと、事務的な対応を選んだ。 「起きて仕事はできそうか、カトウ軍曹」  まるで午後までにこの書類を翻訳できるか、という口ぶりである。  待つこと数秒。 「…イエス・サー」と消え入りそうな声が返って来た。 「オーケイ。では急いで、身支度を整えてくれ。下に朝食の準備ができている。ああ、それとシャワールームに忘れてあった君の部屋の鍵は、着替えの軍服と一緒にサイドボードの上に置いてあるから」  クリアウォーターは上掛けの上からカトウの肩をたたき、そのまま部屋を出て、先に階下へ降りて行った。

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