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第六章(⑩)

 クリアウォーターとフェルミがヤコブソンから話を聞き出す間、サンダースは病室を抜け出して、カトウの様子を見に行った。 「もうすぐ終わりますよ」と看護婦に言われ、待合室で長椅子に座って待っていると、ほどなくカトウが診察室の方から戻って来た。片袖をまくり上げ、腕を押さえている。 「医者が言うには、問題はないそうです」  そう言って、小柄な日系二世(ニセイ)の青年はサンダースの横に腰かけた。 「注射を受けたのか?」 「いいえ。ついでに献血してきたんです。何でも、B型の血が足りないって話だったので。俺、B型ですから」 「ああ、なるほど」 「クリアウォーター少佐は?」 「今、ヤコブソン軍曹の病室だ。あとで一緒に行こう」  サンダースは買っておいた飲み物をカトウに差し出した。献血のあとは水分を取った方がいい。カトウは礼を言って受け取ると、一口(ひとくち)飲んで息をついた。 「ーークリアウォーター少佐も、ちゃんと検査を受けますよね?」 「もちろんだ」  サンダースが断固とした口ぶりで請けあった。 「本人が嫌がろうが、駄々(だだ)をこねようが、必ず受けさせてから帰る」 「それなら、よかった」 「……カトウ」 「はい?」 「ーー昨夜はボスと一緒だったのか?」  不意うちの質問に、カトウは飲みかけの水をあやうく()き出すところだった。  噴き出しはしなかったが、むせた。  みっともなくせきこむカトウの横で、サンダースは周囲をはばかるように声を低くした。 「念のために聞いておくが――合意(ごうい)の上だったんだろうな?」 「は、はあ……!?」 「いや。合意の上だったかと聞いたんだ。その…そんなことはなかったと信じたいが、万一、行為を強制されたのなら――」 「合意の上です!!」  カトウは真っ赤になって叫んだ。  その途端、「お静かに!」という看護婦の注意が飛んでくる。  カトウは首をすくめて黙り込んだ。  合意の上――だったはずだ。  クリアウォーターに多少、強引なところがあったにしても。カトウが途中で恐れをなして、逃げ出しかけたとしても。  最終的にクリアウォーターとセックスすると決めたのは、ほかならぬカトウ自身だ。    気まずい沈黙が、サンダースとカトウの間を通り過ぎていく。  サンダースはしかめ面のまま、銀縁眼鏡をくいっと上げた。 「――合意の上ならいい。だが、もしも意に沿わぬことがあったというのなら、いつでも相談してくれ。微力(びりょく)だが、力になる」  思わぬ言葉だったので、カトウは理解するのに数秒かかった。 「あの…心配してくださっているんですか?」 「……多分、そうなんだろうな」  サンダースは深々とため息をついた。 「以前、忠告した通り。ボスの辞書には残念ながら、『禁欲』の語は載っていない。私が知っている限りでも、過去に何人かの同性と関係を持っている」 「承知しています」  カトウはそっけなく言った。  そう、カトウはちゃんと知っている。クリアウォーターが経験してきた「関係」が、過去といわずに、現在進行形だということも。  その「関係」の相手が同じ部署に勤務する男で、トノーニ・なんとか・フェルミという名前の持ち主だということも。  サンダースに心配されるまでもない。昨夜のことは、いわば事故のようなものだ。色々、大変な目に()ったせいで、精神的に変調をきたしただけである。  カトウも、そしてクリアウォーターも。  あるいは、クリアウォーターにとって、ああいうことは日常的で、おかしくなっていたのはカトウだけということもあり得る。どちらにせよ、解決方法は決まっている。  あれきりにすればいい。    ただ、それだけの話のはずだった。  

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