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第六章(⑫)

 行きとことなり、東京へ帰る道のりはひどく物々(ものもの)しいものとなった。  さすがに戦車こそ出てこなかったが、クリアウォーター一行の乗ったジープの前後は、常に二台の護衛ジープに守られ、その状態で国道一号線を北上していった。前と後ろのジープには万一、襲撃を受けた時に備えて、十分なガーランド銃とトミー・ガン、おまけに機関銃まで積まれている。 ーーまるで戦争をしていた頃に戻ったみたいだ。  ジープの後部座席に座るカトウは、出発してからずっと、車窓の景色に目をこらしていた。両足の間には、真新しいガーランド銃。ベルトには、十分な数の弾丸クリップ。どこから襲われても、即座に対応するのが自分の仕事である。しかし――。 「もう、ジョン・ヤコブソン軍曹の役立たず! せっかくカメラ並みの記憶力を持ってても、持ち主がピンボケじゃ、宝の持ち腐れだよ」  間延(まの)びした怒りの声が、カトウの横から上がった。  今回、運転はサンダース中尉が担当し、助手席にはクリアウォーター少佐、そして後部座席にカトウと並んでフェルミ伍長が座っていた。  病院を出発してから、フェルミはずっと文句を言い通しで、だんだんカトウはそれが耳についてきた。  いいかげん堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒が切れそうになった時、 「トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ伍長」前の助手席から、物柔らかな声がした。 「少し静かにしなさい。皆、疲れているんだから」 「あ……はあい。ごめんなさい」  フェルミは素直に、クリアウォーターの注意を受け入れた。  フェルミは、その外貌や奇天烈な言動ばかり目を引くが、言葉が通じないわけではない。むしろ物分りはいい方である。そのことが、最近カトウにも分かって来た。  赤毛の少佐はフェルミに向かって鷹揚にうなずき、カトウが見ているのに気づいて、軽くウインクした。  首がもげるんじゃないかという勢いで、カトウは顔をそむけた。 ーーーーーーーー  ……自分の顔がまた赤みを帯びていないか、ひやひやする。  今朝からずっと、まともにクリアウォーターと目を合わせることができずにいた。  サンダースに語った通り。昨日のクリアウォーターとの情事は、危ない目に遭った時に特有の一時的な変調だ。もう二度とするつもりはない。 ーーだいたい……痛かったし。  それもかなり。今もまだ、腰ににぶい痛みが残っていた。  幸か不幸か、身体的な痛みなら何とかなる。それを耐えて、やり過ごす(すべ)を、カトウはずい分、昔に習得していた。 ――………だけど、痛み以外は?  身体の腰以外の部分がいやおうなく、昨日のことを想い出していく。  クリアウォーターの厚い胸板。太く(たくま)しい腕。その両腕に抱かれながら、互いの足をからませて、すき間もないくらいに身体を密着させてーー。  その時、カトウの内側から、震えるくらいに満ち足りた想いが(あふ)れてきた。  ずっと欠けていたものをついに見つけた。そんな錯覚さえ覚えるくらいに。 ――ああ、もうやめろ。  カトウは自分を責めた。こんなの不毛だ。クリアウォーターにとって、カトウとの情事など、きっと一時的な気まぐれに過ぎない。 ーー今朝のそっけない態度が、いい証拠じゃないか。  まるで何事もなかったかのように、クリアウォーターは言ったじゃないか。 「仕事はできるか」とーーそれにある意味で救われた面はあったが。  あの時、無意識に望んでいた言葉はーーきっと、もっと違ったものだったはずだ。  そこで今さらのように、カトウは罪悪感を覚えた。 ――…トオルを裏切った。  ミナモリへの気持ちは、今も変わらない。  それなのに、クリアウォーターとなしくずしに関係を持ってしまった。  最低だ。最低すぎる。  もう十分に、取り返しがつかない。けれどーー泥沼にはまる前の、まだ引きかえせる地点のはずだ。 ――絶対に、二度と、あんなことしない。  日の暮れかけた街を眺めながら、カトウは固く誓った。   その隣では、フェルミ伍長が安らかに寝息を立てはじめていた。

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