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第七章(①)
大学一年生の第三学期。
六月に入り、まもなく長期休暇に入るというその日、アメリカ人のダニエル・クリアウォーター青年は、受講していた西洋古代史の授業で奇妙な課題を出された。
「今から、諸君にちょっとしたメッセージを与える」
ローマ帝国史を専門にするナサニエル・グラン教授はそう言って、黒板の上に奇妙な言葉をつづった。チョークで書かれた文字列は、一見すると、ラテン語のように見えなくもない。
学生たちは首をかしげ、近くの席の者同士でささやき合った。
「このメッセージを解読した学生一名に限り、学期末の試験を免除する」
このひと言で、ささやきがざわめきに変わった。グランの出題する試験は、学内でも指折りの難易度を持つことで知られていたからだ。学生たちにとって、試験を受けずにすむなら、それだけでチャレンジする価値があった。
「なお二名以上が解読した場合は、先着順とするから、そのつもりで」
講義が終わり、教授が退室したあとも、学生の多くが教室に居残った。頭をつき合せて知恵を絞り、ああでもない、こうでもないと暗号の解読をこころみる。
そんな彼らをしり目に、クリアウォーターはさっさとノートと文房具をかばんに片づけた。
「おーい、『赤毛のダン』! お前も知恵を貸せよ」
教室を出ていきかけたクリアウォーターを、学生の一人が呼び止める。
振り返ったクリアウォーターは彼に向かって、片手をひらひらと振った。
「ぼくは真面目に、試験勉強することにするよ」
そして、さっさとひとり教室をあとにした。
廊下に出たクリアウォーターが窓から下をのぞくと、教授が自分の研究棟の方へもどって行くところだった。
階段を一段飛ばしで駆け下りたクリアウォーターは、幸いなことに、教授を見失う前に追いつくことができた。
「グラン教授!」
グランが立ち止まる。クリアウォーターは彼の前にやって来ると、にこやかに微笑 んだ。
それから耳に心地よい声で、余人には聞かせられぬ罵詈雑言 を老教授に浴びせた。
聞き終えたグランは無言で、赤毛のアメリカ人学生をじろじろ眺めた。
教授の沈黙があまりに長かったので、クリアウォーターは自分の導き出した答えが、とんでもない間違いだったか、と冷や汗をかいた。
だが最後に、グランはふっと口元をゆがめた。
「よろしい。試験免除だ――明日の午前九時に、私の研究室に来るように」
翌日、クリアウォーターが指定された時間に行くと、部屋の中でグラン教授ともう一人、中
年の男が待ちかまえていた。グランの口から、クリアウォーターは男がロンドンに存在するとある諜報機関の人間であることを告げられる。
同時に、その機関が秘密裡に開講している「課外授業」に、ナサニエル・グラン教授がダニエル・クリアウォーター青年を推薦したことも伝えられた。
「受けるか、断わるかは君の自由。だが、一度参加すると途中でやめるのは難しい。どうするかね?」
クリアウォーターは男をちらりと見て、首をかしげた。
「この方は、ぼくが参加するのをあまり喜んでいないようですが」
男の眉がぴくりと動く。グランは、意外にもあっさり認めた。
「ああ、喜んではいない」
「なぜなら、アメリカ人だから」
「その通り。だが君はスコットランドの由緒正しき貴族、ブランドン卿 の甥でもある。君が将来、その爵位を継ぐ可能性はまずないが、血筋は悪くない。資格としては十分だ」
「人間の能力は血統で決まるものではないと、ぼくは個人的に思っていますが」
「ふむ、一理あるな。しかし優秀なスパイが往々にして、爵位を継げなかった貴族の次男坊や三男坊であることも事実だ」
「裏をかえせば、そうでない人間も多い、と」
「……さて。さらに君について、この男が気に入らぬことがあるが、分かるか?」
クリアウォーターは肩をすくめた。
「この目立つ赤毛、でしょう?」
グランはうなずいた。
「その通り。スパイの鉄則中の鉄則は、目立たないこと、相手の記憶に残らないことだ。まあ髪の色くらいなら、いくらでもごまかしがきく。かつらをかぶってもいいし、なんなら染めてもーー」
「はあ……」
答えるクリアウォーターの声に、すでに当初の興味深さは失われている。
ーー世の中には、努力しても変えようのないことが結構ある。
クリアウォーターは、この哲学の信奉者である。たとえばーー。
生まれる場所は、自分では選べない。
どんな髪の色を持って生まれるか、自分では選べない。
そしてーー男女のどちらとセックスしたいと思うか、本能的な欲望をおいそれとは変更はできない。
変えようのないことに、あれこれいちゃもんつける相手を好きになれなかった。
「断る気かね?」グランは言った。
「残念だな。まあ、君はアメリカ人で赤毛だから、それも仕方あるまい」
クリアウォーターをたきつけるのに、それはこの上なく効果的なひと言だった。
世の中には、努力しても変えようのないことはある。
だから変えられないことを、無理に変えろと言われることに、クリアウォーターはストレスを感じる。
しかしーー何が変えられて、何が変えられないかを、赤の他人に勝手に決めつけられるのは、それ以上に気に食 わなかった。
「――参加させていただきます」
気づくと、クリアウォーターはそう答えていた。
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