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第七章(②)

 アメリカにいるクリアウォーター夫妻は、息子が大学の長期休暇の間、エジンバラ郊外の邸宅で読書をし、自然豊かな環境で狩りを楽しんでいると信じて疑わなかった。  率直極まりない言葉で(つづ)られた手紙を見れば、誰だってそう思うだろう。  両親に嘘をつくことにかけて、この頃のクリアウォーターはすでにひとかどの才能を発揮していた。二人は、ダニエル青年がスコットランドを遠く離れ、ノーフォークの田園地帯にある館でほかの貴族の青年たちと、せっせと金庫破りや即席爆弾の作り方について学び、近接戦闘の手ほどきを受けているとは、つゆほども知らない。本当のことを知っていたのは、クリアウォーターの伯父ブランドン卿と執事のアルバートだけだ。  ノーフォークの館でクリアウォーターはナサニエル・グラン教授に再会した。  教授は教師のひとりとして、「課外授業」の一コマを受け持っていた。学生たちを前に、グラン教授は古代ローマ帝国の皇帝たちを語るのと同じ熱意で、人をあざむく弁舌術や変装術を論じた。 「ーー君はスパイでなければ、役者かさもなくば詐欺師(さぎし)になれるな」  教授はクリアウォーターをそう評した。 「君はまるで呼吸する自然さで、こちらが赤面したくなるようなうそをつく。のみならず、その笑顔と話術であっという間に、相手の警戒心を解いてみせる。天賦(てんふ)の才というべきかな」  確かに、クリアウォーターは偽りの自分を周囲に信じさせることに熟達していた。  毎週末、赤毛の青年は列車に乗り、ロンドンに足を伸ばしていたが、その理由について、周囲には「伯父に命じられた用事を片づけるため」と言っていた。実際に些末な仕事をしていたので、彼の言葉を疑う者はいなかった。だが本当の目的は、ほかのところにあった。  ロンドンに到着すると、クリアウォーターは毎回、伯父が用意したアパートメントの一室に向かう。ただし、そこに泊まったことはほとんどない。髪の色に合うつけひげをつけ、仕立てのいい服に着替えると、すぐに出かけるからだ。  ちょうど沈む夕陽が、川面を赤と黒の二色に色づける時間帯だ。暮色のせまるロンドンの街をそぞろ歩いていると、幼い日を過ごした東京のことをクリアウォーターは時々思い出す。 「ーー悪魔が姿を表す時間、か」  「逢魔(おうま)が時」ーー荻窪の邸で働く女中から教えてもらった日本語は、彼女が大げさに語った怪談話とともに、深く記憶に刻まれている。  あの頃は、夜に外を出歩いて、恐ろしい姿の悪魔に出くわすことをまじめに恐れていた。もっとも、成長するにつれ悪魔や他の超自然的なものへの恐れは、ほとんどなくなった。牧師の息子として生まれたが、クリアウォーターは神よりも自然科学をより強く信奉していた。これも時代の流れだろう。  そのかわりーー人々が悪魔に対する以上に嫌悪し、侮蔑する人間であることが露見(ろけん)しやしないか、いつも用心深く警戒していた。

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