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第七章(④)
そして忘れもしない一九三七年の夏が来た。
恒例の課外授業が始まって三週間目、クリアウォーターは講義の終了時にナサニエル・グラン教授に残るように言われた。
他の「学生」が出て行ったあとの部屋は、ひどく静かだった。壁際の一角にある大時計の振り子が時を刻む音が、天井の高い室内で、いつもより大きく聞こえる。
すべての学生が寮棟に戻ったのを見はからい、グラン教授はクリアウォーターに「さて」と向き直った。
「これから、君の卒業試験について説明をする」
クリアウォーターは快い緊張が、背中に走るのを感じた。
この「課外授業」には、必ず実地での試験があることを、最初の年に知らされていた。ただし、それがいつ行われるかは当人たちには分からない。諜報機関の担当者や講師陣が、学生たち一人一人の能力や習得度を見極めて決める、と告げられていた。
開始から三年というのは早いか、それとも遅いか。はっきりした証拠はないが、多分遅い方ということはあるまいーークリアウォーターは密かに、そう思った。
グラン教授は授業用教材の間に忍ばせていたファイルを、一枚の写真とともにクリアウォーターに手渡した。
「ここに写っている男は、IGファルベン(ドイツ最大の化学工業トラスト)の某幹部だ」
グランは説明した。
「一ヶ月の時間を君に与える。ドイツに飛んで、この男の交友関係を徹底的に調査しろ。なお万一、君が向こうの当局に拘束された場合、こちらは一切関知しないので、そのつもりで」
グランはそこで、ちらりとクリアウォーターの顔をうかがった。彼の教え子は、いつもと同じ微笑をたたえていた。
ーー知らず知らずの内に、誰もが警戒心を解いてしまう魅力的な笑顔。
その強固な仮面の下にある本心を見透かすことは、いまやグランでも難しかった。
「――卒業試験で怖気づく人間もいる。君はどうだ?」
クリアウォーターは即座に答えた。
「もちろん、やりますよ」
数日後。クリアウォーターは「夏休みを利用して旅行を楽しむ富裕なアメリカ人の大学生」として、ドイツの地を踏んだ。
ベルリン市内にあるホテルに投宿した後、向かったのは市内の西部、戦勝記念塔 の見える道にある建物である。その一階のホールで、例の幹部を含む何人かの経済界の人間が今宵、講演を行う予定であることを事前に知らされていた。
ドイツでアドルフ・ヒトラー率いるナチス党が政権を握って早五年ーーベルリン市内では、そこかしこに、物々しい雰囲気が漂っている。再軍備を果たしたドイツ軍が、いずれヨーロッパの国々に牙を剝くのではないかと、世界中の国々がかたずを飲んで見つめていた。
クリアウォーターがホールに入った時、そこはすでに満員であった。
大半の人間が四十代から五十代、という中でクリアウォーターの姿はいやでも目立つ。周囲に不審に思われるより先に、彼は先手を打った。
「スミマセン。今日、これから話をするのはどういう人たちですか?」
なまりのあるドイツ語で話しかけられた男が、興味ぶかげな目を赤毛の青年に向けた。
「あんた、アメリカ人かい?」
「はい。通りを歩いていたら看板が出ていて、入場自由と書いてあったものですから。経済に関する講演会ですよね?」
男はうなずき、人のよさそうな「おのぼりさん」の若者に、親切に講演会のプログラムを説明してくれた。初めて聞く情報について、クリアウォーターは注意深く頭に刻み込んだ。
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