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第七章(⑤)
講演会の内容は、さほど興味を引くものではなかった。
それでも、ドイツ語の聴き取り 練習くらいにはなる。クリアウォーターは話に聞き入った。そしてターゲットであるIGファルベンの幹部が登壇すると、ことさら彼を見つめ、その話に熱心に耳を傾けた。
……話の途中から、クリアウォーターは妙なことに気づいた。
壇上 の幹部の方も、なぜかクリアウォーターの方に頻繁に視線を向けるようになったのである。どうも、気のせいではなさそうだ。
クリアウォーターは、危惧を覚えた。
ーー目立ち、誰かの記憶に残ることは、スパイとしては失格だ。
否が応でも人の目を引く赤毛を入念に鳶色に染めて来たが、不十分であったか――。
――いや。これはチャンスかもしれない。
講演会は二時間ほどで終了した。
儀礼的な拍手がおさまった後、聴衆たちが帰りはじめる。その人波にさからって、クリアウォーターは演説台の方へと向かった。
ターゲットの男はそこで、ほかの講演者と握手を交わしていたが、赤毛の青年の姿に気づくと手を上げて別れ、彼の方に近づいてきた。
そして、何と自分から、クリアウォーターに話しかけてきたのである。
「今夜の聴衆に、こんな若いお人が来てくれるとは知らなかったよ。途中で、退屈しなかったかい?」
「いいえ。大変、興味深く聞かせていただきました」
クリアウォーターは、平然と真っ赤なうそを舌にのせた。持てる知識を総動員して、どこが素晴らしかったかをさりげない口調で伝えると、IGファルベンの幹部は鷹揚 に相づちを打った。
それから予想もしないことを言った。
「それほど興味があるのなら。どうだろうか、立ち話もなんだから、このあと一緒に食事でもどうだろうか?」
「え……それは、たいへん光栄なお誘いですがーー」
そう言いながら、クリアウォーターは相手を注意深く観察した。
――この男の意図はなんだ?
幹部はクリアウォーターと比べても、少し背が高いくらいでがっしりした体躯をしていた。首も胸も腰は、おそらく1.1倍くらいあるだろう。
ーー多分、あそこもかな。
そんな不埒 なことを考えるクリアウォーターを、幹部の方も値踏みするように見つめてくる。その時、相手の淡い茶色の眼に、一瞬好色の色がよぎった。
それを見たクリアウォーターは、不意に理解した。
この男がなぜ講演中に、クリアウォーターの方ばかりを見ていたか。
そしてなぜ、こうも見知らぬ外国人の青年に愛想よく接するかーーその理由を。
不思議と嫌悪はわいてこない。それどころか、奇妙に心が高揚してきた。
ーー自分の中の、他人とは決定的に違う部分。
それを生かせる機会が来たと、クリアウォーターは直感した。
「――ーご迷惑でなければ、もっと教えてください」
高ぶる心と裏腹に、顔の筋肉は完璧な制御の下で動かすことができた。
幹部の男だけに見える角度で、クリアウォーターはこの上なく淫蕩な笑みを唇に刻んだ。
「あなたのなさっていること。そしてーーーあなた自身のことを」
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