96 / 264

第七章(⑧)

 しかし、である。諜報の仕事に人生の三分の一近くを捧げたクリアウォーターにとっても、今回の秘密調査ほど、神経をすり減らしそうなものはなかった。  狙われているのはクリアウォーター自身。さらに部下たちまでもが危険にさらされている。  否、そこにさらにもう一人、付け加えるべき人間がいた。 「――というわけなんだ。邦子(くにこ)さん」  荻窪(おぎくぼ)にある自宅に戻った翌朝。朝食を食べ終えたクリアウォーターは、落ち着かない様子のお手伝いさんを呼んで、ようやく一昨日以来の事情を――多くの部分を削ったり、隠したりして――説明した。  西村邦子が不安がるのも無理はない。クリアウォーターが出張に出かけた次の日に、ろくろく説明もないまま、邸が屈強なアメリカ陸軍の兵士(GI)たちによって警護されだしたのだから。 「一昨日の夜、私は正体不明の輩に命を狙われた。しかも残念なことに、今後も危険な目に遭う可能性がある」  クリアウォーターは邦子がちゃんと話を理解できているか、確かめながら話を続けた。 「労務(ろうむ)部門に言って、君の新しい働き先をきちんと手配してもらうから。見つかり次第、そちらにうつってもらえないだろうか」  それまで口をはさまずに話を聞いていた邦子は、そのひと言を耳にした途端、「あら」と不満の意を示した。 「わたくしがいなくなった後、どなたかお(やと)いになるつもりですか?」 「いや、それは……」 「お食事は? お洗濯は? お掃除は? ーーこの広いお邸は誰も掃除しなければ、一週間の内に、あちこちほこりだらけになってしまいますよ」  珍しく返事に窮するクリアウォーターに、邦子は微笑んでみせた。 「だんなさまみたいに被雇用者の労働時間をきっちり守って、お休みもくださるお宅は、そうそうございませんから。わたくしの仕事に不満がないのであれば、引き続き働かせていただきたく存じます」  こうして、見た目よりはるかに(きも)のすわったお手伝いさんを、クリアウォーターはやむなく家に置き続けることを決めた。しかたがない。U機関(ユニット・ユー)に出勤している昼間も、警備の兵士に巡回してもらえるよう手配しよう。  すでにクリアウォーターの自宅だけでなく、U機関の建物の周囲でも、参謀第二部(G2)のW将軍が派遣した陸軍兵士が警備をはじめている。この状態が一体いつまで続くのか、クリアウォーターさえあずかり知らぬことである。  ちなみに昨晩、事件を指揮するソコワスキー少佐のところに一度、電話してみたが、「少佐は大変お忙しいので」の一点張りで、取り次いでさえもらえなかった。実際に忙しいのだろうが、同性愛嫌悪者(ホモフォビア)のソコワスキーとしては、クリアウォーターと話すくらいなら、仏寺の物言わぬ仏像と話す方が、まだ有意義だとくらい思っているかもしれない。  クリアウォーターが朝食のコーヒーを飲みほしたところで、邦子がテーブルにやって来た。 「だんなさま。警護の方が、お見えです」 「ああ、来たか。ここに通してくれ」 「承知しました」  邦子が再び戻って来た時、そのそばには彼女よりも背の低い男が付き従っていた。  軍服の肩口には三等軍曹の肩章。腰には制式拳銃。  固い顔つきで敬礼する日系二世(ニセイ)の青年軍曹に向かって、クリアウォーターはごく自然な動作で、優美に返礼してみせた。 「おはよう、カトウ軍曹」 「…おはようございます」 「それじゃあ、行こうか」  クリアウォーターは立ち上がり、邦子の手からカバンを受け取る。 「いってらっしゃいませ、だんなさま」 「うん。行ってくるね」  互いに笑顔を向けるクリアウォーターと邦子の姿は、主人とお手伝いさんというより、まるで何年も連れ添った夫婦のようだ。  カトウがつい見とれていると、視線に気づいた邦子がにっこり笑った。 「加藤さんも、お気をつけてーーくれぐれも無茶はだめですよ」  カトウは赤面した。  しっかり者のお手伝いさんは、この前のパーティで酔いつぶれた客の顔と名前を、きちんと覚えていたのである。

ともだちにシェアしよう!