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第七章(⑧)
しかし、である。諜報の仕事に人生の三分の一近くを捧げたクリアウォーターにとっても、今回の秘密調査ほど、神経をすり減らしそうなものはなかった。
狙われているのはクリアウォーター自身。さらに部下たちまでもが危険にさらされている。
否、そこにさらにもう一人、付け加えるべき人間がいた。
「――というわけなんだ。邦子 さん」
荻窪 にある自宅に戻った翌朝。朝食を食べ終えたクリアウォーターは、落ち着かない様子のお手伝いさんを呼んで、ようやく一昨日以来の事情を――多くの部分を削ったり、隠したりして――説明した。
西村邦子が不安がるのも無理はない。クリアウォーターが出張に出かけた次の日に、ろくろく説明もないまま、邸が屈強なアメリカ陸軍の兵士 たちによって警護されだしたのだから。
「一昨日の夜、私は正体不明の輩に命を狙われた。しかも残念なことに、今後も危険な目に遭う可能性がある」
クリアウォーターは邦子がちゃんと話を理解できているか、確かめながら話を続けた。
「労務 部門に言って、君の新しい働き先をきちんと手配してもらうから。見つかり次第、そちらにうつってもらえないだろうか」
それまで口をはさまずに話を聞いていた邦子は、そのひと言を耳にした途端、「あら」と不満の意を示した。
「わたくしがいなくなった後、どなたかお雇 いになるつもりですか?」
「いや、それは……」
「お食事は? お洗濯は? お掃除は? ーーこの広いお邸は誰も掃除しなければ、一週間の内に、あちこちほこりだらけになってしまいますよ」
珍しく返事に窮するクリアウォーターに、邦子は微笑んでみせた。
「だんなさまみたいに被雇用者の労働時間をきっちり守って、お休みもくださるお宅は、そうそうございませんから。わたくしの仕事に不満がないのであれば、引き続き働かせていただきたく存じます」
こうして、見た目よりはるかに肝 のすわったお手伝いさんを、クリアウォーターはやむなく家に置き続けることを決めた。しかたがない。U機関 に出勤している昼間も、警備の兵士に巡回してもらえるよう手配しよう。
すでにクリアウォーターの自宅だけでなく、U機関の建物の周囲でも、参謀第二部 のW将軍が派遣した陸軍兵士が警備をはじめている。この状態が一体いつまで続くのか、クリアウォーターさえあずかり知らぬことである。
ちなみに昨晩、事件を指揮するソコワスキー少佐のところに一度、電話してみたが、「少佐は大変お忙しいので」の一点張りで、取り次いでさえもらえなかった。実際に忙しいのだろうが、同性愛嫌悪者 のソコワスキーとしては、クリアウォーターと話すくらいなら、仏寺の物言わぬ仏像と話す方が、まだ有意義だとくらい思っているかもしれない。
クリアウォーターが朝食のコーヒーを飲みほしたところで、邦子がテーブルにやって来た。
「だんなさま。警護の方が、お見えです」
「ああ、来たか。ここに通してくれ」
「承知しました」
邦子が再び戻って来た時、そのそばには彼女よりも背の低い男が付き従っていた。
軍服の肩口には三等軍曹の肩章。腰には制式拳銃。
固い顔つきで敬礼する日系二世 の青年軍曹に向かって、クリアウォーターはごく自然な動作で、優美に返礼してみせた。
「おはよう、カトウ軍曹」
「…おはようございます」
「それじゃあ、行こうか」
クリアウォーターは立ち上がり、邦子の手からカバンを受け取る。
「いってらっしゃいませ、だんなさま」
「うん。行ってくるね」
互いに笑顔を向けるクリアウォーターと邦子の姿は、主人とお手伝いさんというより、まるで何年も連れ添った夫婦のようだ。
カトウがつい見とれていると、視線に気づいた邦子がにっこり笑った。
「加藤さんも、お気をつけてーーくれぐれも無茶はだめですよ」
カトウは赤面した。
しっかり者のお手伝いさんは、この前のパーティで酔いつぶれた客の顔と名前を、きちんと覚えていたのである。
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