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第七章(⑮)

 定時を過ぎ、窓の外が暗くなってなお、翻訳業務室ではクリアウォーターが過去に関わっ た事件を洗う作業が続いていた。  午後七時を回っていたが、カトウはさほど空腹を感じなかった。クリアウォーターの命を狙った男たちを一刻も早く捕まえたい。そのためなら一食、抜くくらいなんともないーー。    ぐーきゅるるるるるるる。    隣の机から、盛大に腹の鳴る音が上がった。 「お(なか)すいたのう……」  なさけない声でササキがつぶやく。「真面目にやれ」とカトウが言いかけた時、ちょうど三階から降りてきたクリアウォーターが、翻訳業務室に顔をのぞかせた。 「お疲れさま。どうだい、進捗(しんちょく)状況は?」  一同を代表して、ニイガタが答えた。 「すでに少佐どのが関係した事件のファイルを、すべてリストアップした上で、こちらに運びこみました。対敵諜報部隊(CIC)で保管されていた分についても、昼間の内に話をつけて借りだしてきました」  ニイガタの台詞に、クリアウォーターは感心した表情を浮かべた。 「口で言うほど、簡単な作業じゃなかっただろう。一日で、よく集められたな」 「たしかに。所在を確かめるのには、少々手間取りました。なにぶん、ヤコブソン軍曹が入院中の身ですので」  超人的な記憶力の持ち主であるヤコブソンは、U機関(ユニット・ユー)に来たばかりの頃に、資料室の資料を全て見て記憶した。ニイガタの言う通り、ヤコブソンがいれば分散したファイルの所在場所を、もっと短時間で突きとめられただろう。しかし、少々時間がかかったとはいえ、ニイガタたちは同じことを成し遂げた。  特殊な力などなくても、経験とそして何人かの協力があれば、超人にも及ぶ。  その実例を目にし、クリアウォーターは快い気持ちになる。  そして同時に、たいそう申し訳なく思った。  今、ニイガタたちにさせている作業は、あくまでも時間稼ぎのものーークリアウォーターとサンダースが、U機関(ユニット・ユー)に潜む裏切り者を、水面下で探していることを気づかせないためのカモフラージュである。  それでも、各自の机の上に積み上げられたファイルを前にしたクリアウォーターは、軽く感慨が湧いてきた。  一九四五年の九月から現在に至るまで。約一年半の間に、クリアウォーターが成した仕事の成果が、目に見える形でそこにあった。  活動拠点はずっと東京にあったが、クリアウォーターは関東地方を中心に、ずい分色々な場所に行った。本州で言えば、北は秋田県から西は山口県まで。一度だけだが、九州の門司に行ったこともある。  その過程で、行方不明になっていた様々なものを見つけだし、接収した。  中には、元の持ち主に返却したものもある。たとえば戦中に民間から供出され、保管場所から横流しされた金属製品の山を見つけた際、鍋や門柱に混じって、相当に古めかしい仏寺の鐘が出てきた。  さまざまなことに通じたクリアウォーターであるが、古物の正確な鑑定はさすがに専門外である。だが、その道の専門家にわたりをつけるのはお手の物だ。翌日、クリアウォーターは運び出した鐘を保管している場所まで、東京帝国大学の史学科の国史学(日本史学)の院生に来てもらった。そして彼の協力を得た結果、鐘は最終的に元あった東北地方の村の寺に、返すことができたのである。  後日、寺の住職から丁寧な感謝の手紙が届いた。  その手紙をクリアウォーターは今も、大事に持っている。自分の仕事が誰かの役に立ったという証は素直にうれしく、心の支えになるものだ。  そういうことを思い出しながら、ファイルから視線を移したクリアウォーターは、くたびれきったササキの顔に出くわした。 「ーーニイガタ少尉。今日はもう、このあたりにしたらどうかな?」 「いえ、まだ大丈夫です。小官としては、今夜中にでも、過去の事件に関与した名前のリストを完成させるつもりです」 「気持ちはありがたいが。疲れすぎると、作業効率が落ちてしまうよ」  できるだけ長い距離を走り続けるためには、適度な休息が必要である。  対敵諜報部隊(CIC)にいた頃からの、それがクリアウォーターの持論である。もちろん、今まで夜を徹しての作業がなかったわけではないが、その後には必ず数日の休みを取った。  もしそれができないなら、徹夜の作業はするべきではない。 「明日、また定時から作業を再開すればいい。明日中には、名前のリストも出来上がるだろう?」 「はあ。逮捕者とその近親者のリストであれば、できると思います」 「オーケイ。では、明日の目標はリストの完成だ。それに基づいて、調査をはじめることにしよう――片づけに入ってくれ」  最後の台詞を言った途端、ササキがクリアウォーターの視界の隅で小躍りするのが見えた。  帰り支度を始める部下たちを、クリアウォーターはさりげなく観察した。  特におかしな点はない。ニイガタは多少不服そうで、それと対照的にササキは帰れると分かって明らかにうきうきしている。  いまだ右手を吊っているアイダは、片手で器用にカバンにノートや筆記用具を片づけていたが、目が合うと片方の唇だけを皮肉っぽくゆがめた。  移動したクリアウォーターの視線は、やがて一人の上で止まった。 「カトウ軍曹、ちょっといいかい?」  呼びかけられたカトウの肩が、かすかにふるえた。クリアウォーターは、それに気づかぬふりをして言った。 「三階に一緒に来てくれ。君に、少し話がある」

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