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第七章(⑯)
執務室に着くまでの数十秒が、カトウにはひどく重苦しく感じられた。
――きっと、一昨日 のことだ。
クリアウォーターは、どう話を切り出すのか。それに自分はどう答えるべきなのか。カトウはまったく心の準備ができていなかった。
ところが、執務室に入ると、そこにはスティーヴ・サンダース中尉が待っていた。銀縁眼鏡の中尉の姿を見て、こんなに安堵したことはなかった。さすがのクリアウォーターも、よもやサンダースのいるところで、プライベートな話を切り出しはしないだろう。
その予想通り、クリアウォーターが切り出したのは、純粋に仕事の話だった。
「明日の午後、岩下拓男の尋問を行うことになった。そこで君に通訳として同行して欲しい」
カトウは耳を疑った。
鎌倉で逮捕された麻薬の売人、岩下拓男。
男の身柄は対敵諜報部隊 に移管されたと、カトウはクリアウォーターから聞かされていた。岩下が今回の襲撃事件でどのような役割を演じていたのか、いまだに明らかになっていない。捜査を担当する対敵諜報部隊 のソコワスキー少佐は、当然のように尋問の優先権を主張し、クリアウォーターもそれに応じた。
そのはずだった。
「…ところがね。この男は中々に、手ごわい相手らしい」クリアウォーターは言った。
「昨日と今日、対敵諜報部隊の要員が交代で休みなく尋問を行ったそうだが、いまだにひと言も漏らしていないそうだ。文字通り、何も話していない」
ついにはソコワスキー自らが足を運んで尋問を試みたが、はかばかしい成果は一向に得られなかった。それにしびれを切らしたのは、参謀第二部 のW将軍であった。
「明日の十二時までに、奴に口を割らせろ。できなければ、もっと尋問に長けた人物と交代させる」
彼が敬愛してやまないマッカーサー元帥と同様、W将軍も即断即決を座右の銘としている。
将軍はその場で副官に命じ、クリアウォーターに連絡を入れたーーという次第だった。
話を聞き終えて、カトウは気が滅入ってしまった。今、クリアウォーターのそばに長時間いなければならないこと自体、軽く拷問である。
その上、巣鴨プリズンでの甲本貴助 に対する尋問での失態がある。
あの時、カトウはとうてい最良の通訳とは言えなかった。
「ーー俺に、役目が務まるでしょうか?」
つい、そんな弱音をこぼしてしまった。言ったあとで、はっと気づいて口を閉ざす。
「失敗を恐れているのかい?」
クリアウォーターは、怒ったりはしなかった。
「経験を積む過程で失敗はつきものだよ、カトウ軍曹。失敗から学ぶことで、人は成長する」
「…おっしゃる通りです」
「私は君にできるだけ長く、そばにいて欲しいんだ」
それを聞いた途端、カトウの耳たぶがかっと熱くなった。「何の口説き文句だ…!?」と、うろたえる。
ところが、クリアウォーターはいたって真面目な口調で続けた。
「U機関になくてはならない人間に成長した君に、長く私をサポートしてもらいたい。だから、多くの経験を積んで欲しいんだ」
「あ……」
ーーバカみたいだ。
カトウは内心うめいた。一瞬でもーー自分は何を期待したんだ?
「大丈夫だよ」クリアウォーターは物柔らかに微笑する。
「私がついている。多少の失敗はフォローする。それくらいの器量は、あるつもりだ」
カトウは笑みを浮かべた相手の顔を見つめた。
いつもと変わらない態度。
一昨日 の夜のことなんて、まるで存在しなかったかのようにーー。
ーー……そうだ。存在しなかったのと、同じなんだ。
クリアウォーターにとって、カトウとの情事など、きっとその程度のことなのだ。
彼がたくさんしている恋の中の、記憶するにも値しない一頁 。
滑稽劇の舞台に、ひとり立たされた素人役者のような居心地の悪さをカトウは感じた。同時に、情けなさも。これ以上、一人芝居を続けていても、よけいにみじめになるだけだ。
ーーあれは一夜の夢。いつまでも引きずるなんて、見苦しいだけだ。
カトウは口元を引き締めると、精一杯の虚勢を張って、赤毛の上官を見返した。
「分かりました。つつしんで、お引き受けいたします」
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