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第八章(①)

「また意地の悪い真似をしましたね」  ジープの運転席に乗り込んできたクリアウォーターに、サンダースが言った。声音にとがめる色を認めたクリアウォーターは、頭をかいた。有能な副官はすべてお見通しだったようだ。 ――そばにいて欲しい――。   その言葉にカトウがどんな反応をするのか、クリアウォーターは水も漏らさぬ目つきで観察していた。もっとも特に鋭い人間でなくても、カトウの反応を見逃すことはなかっただろう。青白かった頬にさっと赤味がさした時、クリアウォーターは笑顔の仮面の下で、ひそかに快哉を叫んだ。 ――これは、かもしれない。  喜びと同時に、自分の言動に滑稽さも感じる。正面から切り出すことを、理由をつけては避け続け、こんな形でしか相手の心を確かめられないのだから。  それだけ、本気なのだ――クリアウォーターは改めて、自分の気持ちを理解する。  失いたくない。終わらせたくない。こんなに誰かに執着を持つことは、久しくなかったことだった。  運転席からクリアウォーターはU機関の建物を振り返る。見送りのために、正面扉のそばに立っていたカトウが気づいて、固い顔で敬礼した。 ――また明日。ジョージ・アキラ・カトウ軍曹。  クリアウォーターは微笑して返礼し、ジープのエンジンをかけた。 ーーーーーーーーーー  ……真新しい灰緑色のジープが走り去っていった後も、カトウはその場に突っ立っていた。クリアウォーターの輝くような笑みが、まだまぶたに焼きついている。何もかも、腹立たしかった。あんな風に振る舞えるクリアウォーターも、そしてそれにまんまと乗せられて気持ちをかき乱されている自分自身にも。  ひんやりした夜気の中で、怒りはすぐにみじめさに変わった。それを引きずりながら、カトウはクリアウォーター邸と反対方向、(あけぼの)ビルチングへ向かって、とぼとぼと歩き出した。    食堂で夕食をすませ、自分の部屋に戻ったカトウは、ベッドの上で読みかけの本を開いた。荻窪駅前のヤミ市で買った、夏目漱石の『吾輩は猫である』だ。  だが、ページを開いて文字を追っても、内容は少しも頭に入ってこなかった。しかたなしに本を閉じると、カトウは横になって目をつむった。  うつらうつらしている内に、また夢を見た。ただし、前に見たような鮮明なものではない。  そこで、カトウは誰かの腕の中にいた。たくましく、そして背の高い青年――でも、顔ははっきりしない。  ミナモリだった気がしないでもない。だが、そうだと言える自信がなかった。  逆に。絶対にクリアウォーターではないと、言い切る自信もなかった。    風が窓を揺らす音で、カトウは目を覚ました。また、苦い罪悪感がこみあげてくる。  ため息をついて、シャワーを浴びるためにベッドから起き上がり、時計を見ると、すでに日付が変わる時刻になっていた。  廊下に出ると、当然のように人の気配はなかった。だから、浴室に灯りを認めた時は、少し驚いた。 ーー消し忘れか……?  カトウは更衣室のドアを少しだけ開けて、中をのぞきこんだ。

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