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第八章(②)

 更衣室の柱の一角には、掃除用バケツに水を入れるために水道が引いてある。その前で、男が風呂用の低い腰かけに座っていた。服を着ておらず、パンツ一枚の姿である。  さらにカトウが目をこらすと、右腕を白布で肩から吊っているのが見えた。 「ん、だれだ?――って、カトウか」  リチャード・ヒロユキ・アイダ准尉が、夜中の闖入者に向けて、顔をほころばせた。 「こんな時間に風呂か?」 「ええ……准尉も風呂ですか」 「俺はまだ、医者から止められている。だが、どうにも拭くくらいしないと気持ちが悪くてな――そんなところに立ってないで、入れよ」  吊っているのと反対側の手で、アイダは濡れたタオルを示した。それを足元に置いたタライの湯の中にひたすと、手元の蛇口に巻きつけて器用に片手で絞った。  じろじろ見るのが失礼だとは分かっている。それでも、カトウは(あら)わになったアイダの身体に否応なく目が吸い寄せられた。日頃、右足を引きずっていることから、そこに傷があることは薄々(うすうす)、勘づいていた。  しかし――正直、ここまでひどいものとは、思ってもみなかった。  アイダの右足は、指が二本欠けていた。そこから赤黒くえぐれた傷跡が、まるで稲妻のように伸びて、太ももの付け根あたりまで続いていた。 「――たいしたもんだろ?」  カトウのような反応に、もう慣れっこなのだろう。アイダは平然とした顔で、右足をごしごしとこすった。 「ニューギニアで戦っていた時、仲間が踏んだ地雷の巻き添えをくらって、このザマだ。手術をしたブリスベンの医者は、『二度と歩けはしない』と保証していた」 「……そんな大変な苦労をしたなんて、知りませんでした」 「まあ、人にそうそう話すことでもないからな。それに、俺は今では、立派に自分の二本の足で歩いている。さて、ここから得られる教訓は何だと思う?」 「医者の言葉はうのみにするな、ですか?」 「ま、そんなところだ」  アイダはタオルをタライに浸した。 「ただし、『一度脱臼した肩は外れやすくなるから、気をつけろ』とも言っていたな。こっちは正しかったわけだ」  先ほどのやり方で、またタオルをしぼる。結構うまくやっているようだが、やはりどうにもぎこちなさが残る。見ていたカトウは黙っていられず、つい言ってしまった。 「あの。身体()くの、手伝いましょうか」 「ん? あー…まあ、自分でできるから」  アイダはそう言ったものの、しばらくして口元を皮肉っぽくゆがめた。 「悪いが、やっぱり背中と左腕だけ頼めるか?」 「お安いご用です」  カトウは腕まくりして、アイダの手からタオルを受け取ろうと、かがみこんだ。  まさに、その時だった。  アイダが何の前触れもなしにタオルを捨て、左手を伸ばして、カトウのうなじに触れた。当然のことだが、カトウはぎょっとなった。 「じゅ、准尉…?」 「――(すき)だらけ、だな」  黒い両眼が、すっと細くなる。品定めするような――否、そんな生易しいものではない。  標的を確実に仕留(しと)めるには、どこを狙えばいいか。  それを見定める兵士の目つきだった。

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