106 / 264
第八章(②)
更衣室の柱の一角には、掃除用バケツに水を入れるために水道が引いてある。その前で、男が風呂用の低い腰かけに座っていた。服を着ておらず、パンツ一枚の姿である。
さらにカトウが目をこらすと、右腕を白布で肩から吊っているのが見えた。
「ん、だれだ?――って、カトウか」
リチャード・ヒロユキ・アイダ准尉が、夜中の闖入者に向けて、顔をほころばせた。
「こんな時間に風呂か?」
「ええ……准尉も風呂ですか」
「俺はまだ、医者から止められている。だが、どうにも拭くくらいしないと気持ちが悪くてな――そんなところに立ってないで、入れよ」
吊っているのと反対側の手で、アイダは濡れたタオルを示した。それを足元に置いたタライの湯の中にひたすと、手元の蛇口に巻きつけて器用に片手で絞った。
じろじろ見るのが失礼だとは分かっている。それでも、カトウは露 わになったアイダの身体に否応なく目が吸い寄せられた。日頃、右足を引きずっていることから、そこに傷があることは薄々 、勘づいていた。
しかし――正直、ここまでひどいものとは、思ってもみなかった。
アイダの右足は、指が二本欠けていた。そこから赤黒くえぐれた傷跡が、まるで稲妻のように伸びて、太ももの付け根あたりまで続いていた。
「――たいしたもんだろ?」
カトウのような反応に、もう慣れっこなのだろう。アイダは平然とした顔で、右足をごしごしとこすった。
「ニューギニアで戦っていた時、仲間が踏んだ地雷の巻き添えをくらって、このザマだ。手術をしたブリスベンの医者は、『二度と歩けはしない』と保証していた」
「……そんな大変な苦労をしたなんて、知りませんでした」
「まあ、人にそうそう話すことでもないからな。それに、俺は今では、立派に自分の二本の足で歩いている。さて、ここから得られる教訓は何だと思う?」
「医者の言葉はうのみにするな、ですか?」
「ま、そんなところだ」
アイダはタオルをタライに浸した。
「ただし、『一度脱臼した肩は外れやすくなるから、気をつけろ』とも言っていたな。こっちは正しかったわけだ」
先ほどのやり方で、またタオルをしぼる。結構うまくやっているようだが、やはりどうにもぎこちなさが残る。見ていたカトウは黙っていられず、つい言ってしまった。
「あの。身体拭 くの、手伝いましょうか」
「ん? あー…まあ、自分でできるから」
アイダはそう言ったものの、しばらくして口元を皮肉っぽくゆがめた。
「悪いが、やっぱり背中と左腕だけ頼めるか?」
「お安いご用です」
カトウは腕まくりして、アイダの手からタオルを受け取ろうと、かがみこんだ。
まさに、その時だった。
アイダが何の前触れもなしにタオルを捨て、左手を伸ばして、カトウのうなじに触れた。当然のことだが、カトウはぎょっとなった。
「じゅ、准尉…?」
「――隙 だらけ、だな」
黒い両眼が、すっと細くなる。品定めするような――否、そんな生易しいものではない。
標的を確実に仕留 めるには、どこを狙えばいいか。
それを見定める兵士の目つきだった。
ともだちにシェアしよう!