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第八章(⑤)

 翌日。U機関(ユニット・ユー)のクリアウォーター少佐、サンダース中尉、そしてカトウ軍曹の一行を乗せたジープは、正午近くに参謀第二部(G2)が置かれた旧日本郵船ビルの前に到着した。鎌倉から移送された麻薬の売人、岩下拓男はこの建物の一室で、すでに二昼夜にわたり、対敵諜報部隊の厳しい尋問を受けていた。  だが、この麻薬売人は尋問者たちに何も――文字通り、ひと言も言葉を発していなかった。  クリアウォーターたちが通されたのは、尋問の行われている部屋の隣だった。壁の一角に縦一メートル、横幅二メートルほどのガラスがはめられていて、そこから隣室の様子がつぶさに観察できた。  ガラス窓とみえるものは、実はマジックミラーであった。隣室からはクリアウォーターたちの姿は見えず、ただ大きな鏡があるようにしか見えない、というわけだ。  十二時ちょうどに、その隣の部屋からセルゲイ・ソコワスキー少佐が、乱暴な足取りで現れた。半分白髪の頭は汗で乱れ、ハリネズミのとげのように四方八方に突き出ていた。  「あと二時間、待ってくれ。二時間以内に、落としてみせる」  ソコワスキーの言葉に、クリアウォーターはかぶりを振った。 「だめだね。W将軍と決めたことだ。選手交代の時間だよ」 「せめて一時間……」 「君のやり方じゃ、彼は落とせない」  マジックミラーに視線をやり、クリアウォーターはそっけなく言った。「個人的に」と前置きする。 「暴力を使った尋問に、私は反対だね。痛みを経験してきた人間は、それに()えるすべも身につけている。尋問する側がエスレートして、被疑者を殺してしまっては、元も子もないだろう? 何より、人道的観点からよろしくない」 「……あいにく。俺はああいう手合いに、人道や慈悲など必要だとは思わん」  ソコワスキーはガラスの向こう側の男を見た。岩下の顔は腫れあがり、唇が切れて血がにじんでいる。だがソコワスキーの顔には、憐れみの片鱗さえ見えなかった。 「麻薬がらみの事案は、貴官もくさるほど見てきたはずだ。ドラッグは人間を壊す。それを承知の上で、麻薬を作って、売って、金を儲けようという(やから)は、これ以上、社会に害毒を広める前にまとめて銃殺すべきだ。そう思ってみたことはないか?」  それを聞いたクリアウォーターは、ソコワスキーにまつわる噂話を思い出した。(いわ)く、ロシア移民の子女であった母親は麻薬の過剰摂取が原因で死に、あとに残された息子セルゲイは、母親を発見した警官に養子として引き取られたと……。  クリアウォーターはソコワスキーの横顔をちらりと眺める。内面の苛烈さが、表情を必要以上に険しくしている。 「――君の意見は、それなりに理解できるよ」  クリアウォーターはそう言ってから、穏やかに微笑んだ。 「でも、それは罪を明らかにし、法に照らし合わせた上で与えられるべきだね。その手前で、人の命を奪うのは明白な逸脱行為だ」  連れて来た二人の部下を、クリアウォーターは振り返った。すでに出発前に入念に、打ち合わせは済ませてきた。自分の見立てが正しければ、二時間でケリがつく。  クリアウォーターは静かな自信を込めて言った。 「それじゃあ、我々の仕事をはじめよう」

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