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第八章(⑥)

 クリアウォーターがカトウを連れて尋問部屋に入った時、岩下拓男はちらりと目をやっただけで、すぐに自分の手元に視線を戻した。クリアウォーターにも、カトウにも、そして壁際に控えるMPにも、何の興味も示さない。 ーー(よそお)われた無関心。  クリアウォーターは頭の中でつぶやく。隣室で待機していた十分ほどの間、クリアウォーターは岩下の様子をつぶさに観察していた。疲労と睡眠不足で、岩下の眼の下にはくまができている。尋問に当たった対敵諜報部隊(CIC)の要員によって殴られた跡が、そこに暗色の彩りを添えていた。  可能であれば、クリアウォーターはもっと時間をかけて、岩下の状態を見ておきたかった。  事前に情報を可能な限り集めること――それが尋問の精度を上げ、成功率を上げる鉄則だ。  だが、早く到着しすぎると、今回に限ってはまた問題だ。尋問するソコワスキーらに余計な心理的圧迫を加え、より深刻な暴行を引き起こしかねないことが危惧されたからだ。  二つの要素を考慮した上で、クリアウォーターは結局、直前の到着を選んだ。   ――さて。それが吉と出るか、凶と出るか。  クリアウォーターは机をはさんだ対面に座った。自分の名前と階級を名乗り、カトウを紹介した時も、机の向こう側の岩下は自分の手を見つめたまま、身じろぎひとつしなかった。クリアウォーターはあらためて感心した。 ――うまく殻をつくって、そこに閉じこもっている。  たいていの人間は、このような状況下では身がまえ、無口になるか、あるいは何ともないふりをしようとする。攻撃的な態度をとるなら、それは(おび)えの裏がえしだ。そういう人間ほど、少し高圧的に臨んで暴力をちらつかせれば――ソコワスキー流の言い方をすれば「優しく()でてやれば」――案外、簡単に白旗を掲げる。  だが、岩下はそうではない。強固な無視。外界からの刺激を一切合切遮断するその術を、この男はどこかで身につけたようだ。ある意味、尋問する側にとっては一番やりにくい相手である。  もっとも、クリアウォーターは当然、そんなことで気後れしたりはしなかった。 「岩下。君も、まだ覚えていることと思うけどね――」  石像のように動かぬ男に、赤毛の少佐は語りかけた。 「去年の秋。横浜で大規模な麻薬取引の摘発を行った時、それを指揮していたのは他ならぬ私でね。以来、君のことをずっと追っていた」  わずかのところで逃がした男。クリアウォーターは、取り逃がしたくやしさを執念に変えて、岩下拓男の情報を収集した。  切り札を見つけたのは、その最中のことだ。  今ごろ、サンダースが別室で準備をすすめている。あとは使う最良のタイミングを見計ればよい。岩下からの反応がないことを気にした風もなく、クリアウォーターは続けた。 「君は福井生まれだそうだね。奇遇(きぐう)だけど今、私たちの間で通訳をしてくれているカトウ軍曹は子どものころ、富山に住んでいてね。少し近い場所だ」 「………」 「……君の生家は、貸倉庫業を営んでいた。その会社は、お兄さんが継いでいるね。元々は北陸地方を中心に商売を行っていたが、日本が満洲(まんしゅう)を軍事占領した翌年、君はお兄さんと(たもと)を分かち、一旗揚げようと大陸にわたって、営口と大連で商売を始めた。主に日本に輸送される大豆や燕麦なんかを保管していたらしいね。羽振りは悪くなかったーー」  だが、それも日本の敗戦でソ連軍が破竹の勢いで、満洲に南下するまでのことだった。 「君は会社をたたみ、ほうほうの態で日本に戻って来た。それからすぐだ。君が麻薬の売人として、その筋で名前を知られるようになったのは」 「………」 「満洲と麻薬。このふたつが君の人生に現れるのは、偶然ではないね」  クリアウォーターは言った。 「一九四五年八月。ソ連軍の南下を受けて、満洲にいた日本の関東軍は戦わずして潰走状態になった。離散する中で、彼らは軍事物資や資金を日本に何とかして持って逃げようとしたことが分かっている。そして、その中にはーー莫大な量の阿片(アヘン)も含まれていた」  日本は満洲を軍事占領した後、当地において阿片の栽培を行うとともに、南は海南島から、北はモンゴル、西は東トルキスタンといった地域の阿片を密輸入して転売することで、巨額の富を得た。それらの阿片は、満洲に何百軒とあった阿片窟に販売されただけでなく、船舶や航空機で中国本土に輸送され、天津や上海などで正確な数も分からぬほどの阿片中毒者を生んだ。  そして阿片の売買で得た金の少なからぬ部分が、満洲の経営資金や関東軍の軍事資金に流用されたのである……。 「岩下。君の会社が、陸軍省の下請けとも言うべきS通商とも取引していたことは、すでにつかんでいる。そこで君に聞きたい。日本が敗戦する間際、君の倉庫にあったのは大豆や燕麦だったのかい? そうではあるまいと私はにらんでいる」 「………」 「精製された阿片。それも関東軍がいざという時に持ちだすために、数百キロ単位の阿片が保管されていたんじゃないのかい?」 「………」 「敗戦の混乱期に、君はその阿片を着服し、日本に持ち込んだんじゃないのか?」 「………」 「どうなんだ?」  岩下は答えなかった。クリアウォーターは大げさにため息をついた。 「そうやって、いつまでもだんまりを決め込んでいるようなら、仕方がない。――拷問という手段を使わせてもらう」

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