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第八章(⑦)

 カトウはここまで大過(たいか)なく、クリアウォーターの言葉を翻訳して伝えることができた。少し慣れたこともあるが、前回と異なり、クリアウォーターがあらかじめカトウに尋問の進め方を詳しく説明していたことも大きかった。 「今回は尋問というより、芝居と言うべきかな。というのも、君にもひとつ演技をしてほしいからだ」  そう言って、午前中の時間を割いて練習までさせたくらいだ。それが終わった時、カトウは思ったものだ。 ――なんて意地悪な(ひと)だ。  だが同時に、クリアウォーターのアイディアがこの上なく効果的で、秀逸であることも認めないわけにいかなかった。  「拷問」という言葉がクリアウォーターの口から出てすぐに、サンダースが控えめなノックと共に尋問部屋に入って来た。タイミングをみはからっていたのだろう。クリアウォーターは微笑んだ。 ーー準備完了。いよいよ、最大の見せ場だ。 「――岩下。君は真田信利(さなだのぶとし)という江戸時代の殿様を知っているかい?」  クリアウォーターは言った。 「真田信利は上野国(こうずけのくに)――今の群馬県にあった沼田藩の藩主でね。領民に苛政(かせい)を敷いたことで知られている人物だ。その彼が行った悪行のひとつに、水牢(みずろう)というものがあってね……」  クリアウォーターの口調は、まるで夏休みの思い出を語る子供のように楽しげだ。それと対照的に、翻訳するカトウの声は平板で、抑揚を欠いている。二人の態度の落差は、聞く者を間違いなく落ち着かなくさせた。 「真田信利は毎年、領内の農民に途方もない額の年貢米を納めさせていた。当然、彼らの中には要求された額を支払えない者が現れる。だが、無慈悲なこの藩主は容赦しなかった」  払えなかった者に対して、罰として与えたのが水牢さ、とクリアウォーターは言った。 「要は一種の水責めだ。腰ほどの水深の池に、年貢の支払いが済むまで浸けられる。一見、大したことがないように思えるが、長時間低温の水につかっていると、人間の身体は熱を奪われ容易に低体温症(ていたいおんしょう)を引き起こす。しかも、それが行われるのはたいてい旧暦十二月の一番寒い時期で、二日ともたずに凍え死ぬ者が少なくなかったそうだ。今は四月とはいえ、水はまだかなり冷たい。岩下……君ならどれくらい耐えられるかな?」  カトウがその言葉を訳し終えた時、ひとつの変化が起こった。それまで自分の手元ばかり見ていた岩下が、初めて顔を上げたのだ。 「――三日でも、十日でも、一ヶ月でも耐え抜いてやらあ」  割れて血のこびりついた唇から出た言葉は、人間の声というより(けもの)のうなりに似ていた。  それから、汚物を見る目つきで通訳のカトウを眺めたかと思うと、がさついた声で吐き捨てた。 「毛唐(けとう)の犬に成り下がった非国民が。とっとと死ねよ、みじめに野垂(のた)れ死んじまえ」  ぴんっと部屋の空気が張りつめた。  この部屋にいる四人の内、サンダースとMPは日本語を解さない。それでも、カトウの見せた反応から、岩下拓男が相当にひどい暴言を吐いたことが察せられた。  サンダースがクリアウォーターの顔をうかがう。赤毛の少佐は唇をつり上げ、いかにも面白そうだという風情(ふぜい)。  だが、緑色の眼に絶対(ぜったい)零度(れいど)の光がはじけたのをサンダースは見逃さなかった。 ーー怒っている。  表面こそ笑っているが、これは相当に怒っている時の顔だった。 「――カトウ」クリアウォーターは呼びかけた。 「安心しなさい。今の無礼千万(ぶれいせんばん)な言葉は無視していい。聞く価値も、ましてわざわざ訳す価値もない」 「……はい」 「続けられるかい?」 「問題ありません」  カトウははっきりと答えた。クリアウォーターは、満足げにうなずいた。カトウは前回よりも、ほんの少し成長している。自分でなんとか、踏みとどまってみせた。  クリアウォーターは、岩下に向き直る。  それから、わざとらしいほどに明るい笑みを口元にたたえた。 「そうそう。ひとつ、言い忘れたことがあった。水牢に入れられるのは、年貢米を払えない農民自身ではないんだ――」  カトウが訳す。クリアウォーターが再び言葉を継ぐ。続く台詞を聞いたカトウは、不意に口を閉ざし、上官の方をちらりと見やった。  まるで、クリアウォーターの言葉が信じられない、といったように。  それから練習した通り、もっとも効果的な間を置いて、彼の言葉を訳して岩下に告げた。 「水牢に入れられるのは、農民自身ではない――その妻や子どもたちだ」

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