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第八章(⑧)
岩下の顔からさっと血の気が引く。クリアウォーターは持参してきたファイルから、写真を一枚引き抜くと、それを机の上に放り出した。
モノクロの写真には、どこかの家の門前にたたずむ若い女性と幼い男の子が写っていた。
「君は満洲 にいた時に、日本人の女性と結婚したね。奥さんは二度流産 した後、君が待ちのぞんだ息子を生んだ。二人が日本にもどったかどうか、記録がなく、突きとめるのに苦労したが……岩下、君が鎌倉に現れた理由がこれだ。隠れ住んでいる奥さんと息子さんに会おうとしたんだろう?」
岩下は答えない。だが、同じ沈黙でも、先ほどとは質が異なる。
今そこにあるのは、鋼 の忍耐力ではなく、耐えがたい事実を知ることへの恐怖だった。
ネズミをいたぶる猫のように、クリアウォーターは口元をゆがめた。
「どうして私がこの写真を持っているか、説明が欲しいかい?」
「……きさま……」
「君の家から持って来た。本棚に大事にしまってあったアルバムを引っくり返してね。ああ、写真はきっと何年か前に、満洲にあった君の家で撮られたんだろうね。息子さんはこの写真より大分、成長している。八つだから、それも当然か。実物を見たけど中々に、利発そうな子じゃないか」
「……きさま……きさま、妻と敏夫 をどうした?」
「どうした? おや当然、分かっていると思っていたが。君の家に行った時、持ち出したのが写真だけに見えるほど、私が無欲な人間に見えるかい?」
クリアウォーターが上げた笑い声には、調律されていないピアノに似た響きがあった。かすかに本来の音程から外れて、聞く者の不安をいやおうなくかき立てる。
クリアウォーターはしゃべり続けた。カトウは、その言葉を訳す。
「息子さんは、気の毒なくらいに痩せているね。手足なんてまるで棒きれみたいだ。あんな小さな身体じゃあ、水の中では半日と保つまい。力尽きて、気を失って、そのまま溺 れ死ぬ。死ぬときは多分、苦しまずに済むよ。もっとも、そこにたどり着くまでは、地獄だろうけど」
「やめてくれ………」
「やめて欲しい? そうだな。手遅れになる前に、私としてもやめたいところだ」
あえぐ岩下に、クリアウォーターは微笑で報いた。
それは底なしの海のように静かで、黒い狂気をはらんでいた。
「正直なところ。君の子の泣き声は、耳ざわりなこと極まりないんでね」
カトウが訳し終えるより先に、岩下が座っていた椅子を蹴り飛ばした。言葉にならぬ叫びを上げて、クリアウォーターに突進しかける。だが二歩も進まぬ内に、壁際から駆け寄ったMPとサンダースに肩をつかまれ、そのまま机に押し付けられた。
それでもなお、岩下はすさまじい形相で叫び続けた。
「やめろ、今すぐに!! 息子は関係ない!!」
「そう望むなら、こちらが聞く質問すべてに正直に答えろ。それが終わったら……」
「今すぐ、敏夫を水から引き揚げろ!!」
クリアウォーターは冷ややかに岩下を見下ろしていたが、やがて部屋の壁面の鏡――マジックミラーに向き直った。
「こっちの声は聞こえているね、ソコワスキー少佐。悪いんだけど、お客さんたちを待たせている部屋から連れて来てくれるかい?」
それからサンダースに目配せする。心得た副官は岩下から離れ、ドアの方に向かった。
それから待つまでもなく、ノックの音が上がった。
ドアが開くと、そこにソコワスキーが苦虫をかみつぶした顔で立っていた。そのかたわらには、少しやつれた顔の日本人の女性と、小学生くらいの男の子が立っていた。
ひと目見て、彼らが写真に写った母子だと、カトウにはすぐ分かった。
二人ともきちんとした身なりで、髪一筋、濡れてはいない。
二人は、すぐにMPに押さえ込まれた岩下の姿に気づいた。
「お父さん?」
「あなた…」
それ以上の会話が続くより先に、サンダースが無情にもドアを閉めた。
だが、一瞬の対面で岩下には十分だった。先ほどまでの威勢はどこへ消えたか。ただただ、呆然と目を見開いていた。
「――状況は、分かってもらえたかな?」
そう言ったクリアウォーターの顔は、もう笑ってはいなかった。
「情報をもらすことで、だれかに報復されるのを恐れる必要はない。君は逮捕されて檻 の中だし、奥さんと息子さんは、すでに我々が手厚く保護している――ただし、どのような扱いを受けるかは、君の態度次第だ、岩下。君もすでに知っている通り、二人に付きそっていた男 は、気が長い方じゃあないし、うそをつかれるのがもっとも嫌いだ」
これ単なる脅しではないと、クリアウォーターは念押しをした。
「洗いざらい打ち明けるんだ。それが、君たち親子三人が無事でいられる唯一の道だ。さもなくば――君が先ほど思い描いた最悪の想像は、すべて現実のものになる」
この言葉で、岩下はついに折れて、白旗をあげた。
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