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第八章(⑩)
「……十トンの生阿片 だと!?」
戻って来て事情をクリアウォーターから聞いたセルゲイ・ソコワスキー少佐は、自分の耳が信じられないと言わんばかりに聞きかえした。クリアウォーターはうなずく。
固い表情は、今回ばかりは演技ではなかった。
岩下の話が真実であれば、増田という男は途方もない代物を手に入れたことになる。ケシの実の汁を絞り、それを乾燥させてつくる生阿片からは、いわゆるパイプを用いて吸煙するための阿片膏だけでなく、鎮痛薬であるモルヒネや、さらに麻薬であるヘロインが精製される。モルヒネやヘロインに加工すると、元の生阿片の四分の一から五分の一に量は減るが、それでも莫大な量だ。
総重量二トンのモルヒネやヘロイン。その価値を知る者なら、殺し合いをしてでも、手に入れたいと思う輩はいくらでもいる。さらに――それが仮に日本の社会に流れ出したら、何万人という単位で麻薬中毒患者を生み出すことになるだろう。
「――ただし、うのみにするのは現時点では危険だ。岩下がこちらを撹乱させるために、うそをでっち上げることは、十分ありうる。あるいは単純に思い違いということも…」
クリアウォーターは、マジックミラーをちらりと見やる。
「W将軍から私に任された仕事は、岩下を落とすところまでだが……もう少しだけ、やらせてくれないか?」
「……いいだろう」
珍しくソコワスキーは皮肉も言わずに許可した。
カトウを伴って尋問部屋に戻ったクリアウォーターは、阿片やそれを着服した増田という男について、聞き方を変えて様々な方向から岩下に質問した。しかし、どの答えにも矛盾はなく、一九四五年八月のソ連軍南下の混乱に乗じて、関東軍が密かに集めた十トンもの生阿片が増田という男によって、大連から渤海湾を越えた煙台に移送されたことを示していた。
さらに岩下は戦後、一度だけ都内で増田を見かけたことがあると証言した。
「たしか有楽町のあたりだった。遠目だが、あいつだと分かった。会って話したいやつでもないし、向こうはこちらに気づかなかったから、俺はそのままやり過ごした。それきり、やつには会っていない」
クリアウォーターは尋問しながら、同時に頭をフル回転させて得た情報の分析を行った。
岩下の話が、すべて作り話という可能性はかなり高い。罪を軽くする目的で、スパイや犯罪者が存在すらしない黒幕をでっち上げることは、ままあることだ。
むしろ、こんな途方もない話は、大ボラという方が、納得がいく。
しかし――もし、岩下が真実の一部分でも語っているとすれば?
仮に増田という男が存在し、そして阿片を着服したとする。その男が日本に戻って来たということは、阿片もまた日本へ持ち込まれたことになりはしないか?
だが同時に、ここで一つ疑問が浮かぶ。
もし増田が阿片を都内で売り裁いているなら、その情報は必ずや対敵諜報部隊 に属したクリアウォーターの情報網に引っかかったはずだ。だが、増田なる男の名は、クリアウォーターが作成した麻薬売人のリストには存在しない。あるいは、増田は名前を変えて、活動しているのかもしれない。元諜報員の木原精一が、貝原靖を名乗って情報屋をやっていたように……。
――可能性、可能性、可能性……! 確証がひとつもない。
増田の存在を証明できるのは、今のところ岩下だけだ。しかも、それは二年前の大連での出来事にほぼ限られている。これだけでは、捜査のやりようがなかった。
しかし、一つだけとっかかりになりそうなことがあった。二年前に数度、会っただけではあったが、岩下は増田の顔や背格好をかなり詳細に記憶している様子だった。
――フェルミ伍長に来てもらえば、似顔絵が作成できる。
クリアウォーターはそのことを思いついたが、結局、却下せざるを得なかった。
自分で決めた原則。捜査に当たっている対敵諜報部隊 とU機関の人間を、できる限り切り離すこと。通訳としてやむなくカトウを連れて来たが、それは連れて来ない方が不自然に見えるという理由があったからだ。
クリアウォーターが危惧しているのは、フェルミが裏切り者である――ありそうにないが、現時点で可能性(いやな言葉だ!)は絶無ではない――ということよりも、むしろフェルミの口を通じて、U機関内部にひそむ裏切り者に、情報が伝わることだ。
口を滑らせる、あるいは口が軽いというのは、その人間の頭の良し悪しと実は無関係で、むしろ性格に属す問題だとクリアウォーターは考えている。たとえば、カトウは何かあるとすぐに顔に出るものの、「口外するな」と命じられれば、愚直にそれを守ることができる男だ。
逆に、ササキ軍曹やフェルミ伍長は、残念ながらこの点では信頼を置きがたい。部外者に対してならともかく、身内とみなす相手には、「実は…」と何でもかんでも話しかねない。
いわゆる隠し事ができないタイプ。
身内に内通者がいるというこの状況下では、取扱いには十二分に気をつけなければいけない。
結局、クリアウォーターは休憩時間にソコワスキーを部屋のすみに呼んで、岩下の話から増田の似顔絵を作成することを提案するにとどまった。
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